私の歩んだ道〔第2回〕

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根 岸   勲

母の心強い一言で、昭和34年三本木農業高校に合格、入学の準備をするわけですが、学生服、カバン、靴、教科書等、母がどのようにして工面したのか必要なものは全て揃えてくれた。通学は遠く、金のかかる下宿はできず二男の寿雄夫婦のアパートに同居させてもらうことになり、学費支払いだけで精一杯なので、兄姉達も応援するよう父母から話が出され入学に備えた。それぞれ苦しい乍らも応援してくれる兄姉達に感謝し、四月上旬我が家を後にした。

入学式を終え晴れて高校生活に入るのだが、右も左もわからず、昼休み時に行われる応援歌の練習では、大声で怒鳴りまくる先輩達がただただ恐ろしく、懸命に覚えたものです。

この年四月十日に皇太子(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)との結婚の儀が行われ日本列島がお祝いで沸きかえりました。お二人はテニスのご縁で結ばれたとのことで、当時大ブームで部活の新入生勧誘でもPRされ人気がありました。

この頃から景気も上向き、家電、とりわけ白黒テレビが一般家庭にも入り始めましたが、

貧乏な我が家ではまったく無縁の存在、観覧はもっぱら電気屋の店頭でお世話になりました。入学してひと月もすると学校の様子も分かり始め、部活では柔道部に入りましたが、体が小いかったので、大きな人達を相手に練習もきつく自信をもてなく、いつも軽く投げ飛ばされておりました。そんなとき部長のゴサク先輩から「立ち技より寝技を覚えろ」と助言され、その後少しは通用するようになり練習も楽しさに変わっていきました。素人である新入部員の私達には、時には厳しいが優しく指導してくれる部長でした。

農業科に入った私は、中学時代からの先輩の指導を受け水稲の出来ない開拓地のため、陸稲の研究をし、バラ蒔きせず水田のように苗を一定の間隔をもって植えてみました。除草も楽で立派に分ケツし丈夫に育つことが証明されたので、翌年春に早速実家と開拓の仲間の協力を得て作付けしました。味は別として確実な増収の成果と、何よりも白いご飯が食べられたと喜ばれました。

話は前後しましたが、私は農業クラブ(FFJ)に興味を持ち、諸先生、先輩達の教えのもとに、開墾地の生活を少しでも楽に出来ないかと、いろいろな行事や研究など積極的に参加しました。

入学二か月ほど経ったある日、二男夫婦が仕事の関係で北海道に移ることになり、残された私はアパート代も払えるわけもなく、相坂の知り合いの部屋を無償で借りることになり、その日から未経験の自炊生活をすることになりました。急きょ鍋、七輪、食器を用意しなれない食事を作るのですが、当然、栄養のバランスもとれず惨めな日々を送ったものでした。悪いことは続くもので、父が入院となり母が付き添わなければならず、学費どころではなくなり、長男幸雄夫婦達の苦労を考えれば中退もやむなしの状態でした。だが、長男は「学費は何とかするから最後まで勉学をやりとげろ」叱咤激励され難関を乗り切るべく田畑の草取り等のアルバイトをしましたが、疲れる割には日当も安いものでした。

父が市立病院に入院したので学校の帰りに時々見舞いにいきましたが、そこで何と幼なじみのケンサクが入院しており、七年ぶりの再会でした。彼は背も高く立派に成長しておりましたが、結核に侵されており闘病むなしく十五年の短い生涯を閉じました。幼い頃の思い出話に花を咲かせ励まし続けたのですが、それもかなわず永久の別れとなり、友を亡くした悲しい思いが長く尾を引きました。
 入学も半年ぐらいになると友達も多くなり、特に同じ地区から通学するヒロシやトキオ・ジュンイチとは気が合いお互いによく学び?よく遊びました。農業クラブ活動に共鳴し研究発表や競技大会に参加していくことになるのです。

さて、自炊生活では実家に米がないため、長女ノブの嫁ぎ先、五戸町にはよく足を運び、米やお小遣いを頂き助けてもらい、特に義兄には世話になり感謝感謝です。三男光雄・二女恭子にも応援してもらい、何とか高校生活を続けられました。父の入院生活は長引き貧乏生活も本当にどん底だったと思われますが、今は懐かしい思い出になりました。

一年生の冬、小稲の叔母の物置小屋を借り三度目の引越しをしました。大工だった二男が住める程度に改造し畳はボロボロでしたが、家賃無しなので仕方がありません。ただ電気代として月一回畑仕事を手伝うことが条件でした。コタツも使うことが出来ず、布団に身を包み暖をとり、愛用のリンゴ箱を机にしておりました。当然恥ずかしくて友達も連れて来られませんでした。そんな訳で学費も二~三か月滞納気味になり、事務職員から何度も催促される始末、アルバイトを真剣に探さないと退学も現実となりかねません。ある日商店街で"求むアルバイト"の文字を目にし、飛び込みましたら家具店でした。店主に会い、今までのこと、これからのことを一気にお話しました。じっと聞いていた店主は元教師だったそうで理解していただき、毎週日曜日に働くことにさせてもらいました。昼食・夜食付きだったので大助かりでした。婚礼があれば家具を配達した際、ご祝儀だといってお客様からお小遣いを頂き、学費支払いに回すことができました。家具の傷が付いた品は廃棄処分になるので、店主に頼み無料で分けてもらい、机、タンス、カーペット、布団等私にとっては部屋が新しくなった気分でした。店主との約束は、アルバイトと学業の両立が条件でしたので、以後卒業までここでお世話になり頑張ることができ、感謝の気持ちで一杯です。

農業クラブの校内大会があり、今まで研究した成果発表や競技が行われ、優勝すると県大会・東北大会と進むことが出来ますが、私たちの時代はせいぜい東北大会がやっとでした。(現在、後輩達は全国大会の常連で最優秀賞に輝き全国に三農の名を残しているが・・。)

私も研究成果を発表しましたが、力不足で結果は思うようにいきませんでした。ただ、多くの生徒達の前で発表するそのことが、私に後々の人生に大きく役立つ貴重な体験であったと確信しております。

三学期に入ると、生徒会や農業クラブ役員の選挙が行われましたが、先輩に担ぎ出され農業クラブ役員に立候補、二年生を相手に戦うことになり各教室を演説のため巡ったものでした。頭を下げること・約束・丁寧に会話することなど、このときに覚えた気がします。苦戦しましたが先輩をやぶり当選し、以降農業クラブ活動を強めて行くことになるのです。

当時農業クラブの顧問は三浦浄先生、会長は種市一正先輩(現三沢市長)でした。

こうして何もかも始めての経験した新入生時代も、あっという間に過ぎて行きました。一年生の担任は三浦寿太郎先生で、教師になったばかりで初々しく、特に女生徒に人気があったように思っております。先生は二年間担任となり兄貴のような存在で、誰からも好かれ私にとりましても忘れられない恩師でした。〔昭和36年度の農業科卒業・元播磨商事KK常務〕