三農生の頃 第11回

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三農生の頃 第11回

佐 川 孟 三

三農獣医科を卒業すれば獣医師になれる最後の卒業生33名も、創立50周年を祝った昭和22年10月には、戦死等で三分の一が亡くなり、現在では旭川市に在住の鈴木郁一君の二人だけになった。

 明治31年10月、人口5千人の三本木村に、県下で弘前、八戸中学校に次ぎ、三番目に
我が青森県農学校が開校した。第1回生として畜産科生(獣医)20名が入学、翌年4月には農科生20名が入学した。明治34年10月畜産科生11名、同35年3月農科生18名が卒業した。以降入学は4月、卒業は3月となったが、卒業すれば獣医師になれるので入学志望者が全国から殺到し、高橋秀雄先生が明治39年に入学したときは30名募集に対し二百八十五名で、受験者は中学校卒業者、小学校の先生、軍隊の下士官等で、小学校高等科卒は不利だったようで、三本木小学校高等科より20名受験し、合格したのは高橋先生1名だけだったという。全体で募集定員以上の36名入学し、毎年5、6名が落第と退学により、卒業した者は36名中20名、上からの落第者を含め27名卒業したそうである。志願者が多いので学校側の厳格さが度をこしていたのではないかと、高橋先生がコメントして居られた。

 高橋先生は三農創立時小学校1年生(御尊父は三本木村収入役)で、自宅の裏が三農敷地であったこともあり三農入学までの8年間、三農の変遷をみて育った。三農に今まで見たことも無い動物が入ると、近郷近在はもとより相当遠方から弁当持参で見学に来る人が多かったと言っておられた。最初の動物は豚で鵞鳥や七面鳥も人気があり、六面鳥や八面鳥もいるかと本気で質問する人もいたという。

 明治34年5月19日、第1回運動会が開催された折に、八戸二中より教員生徒百余名、三本木小学校全員、近郷の小学校生徒、上北郡の官公庁幹部、地方議員等、人口五千余人の三本木村に二千名参集し、東奥日報が相当の紙面を割いて報じたそうで、その盛会ぶりが想像できる。
 三農の卒業生が当時の韓国で活躍しており、そのせいか明治39年に高橋先生のクラスに留学生が韓国から2名、翌年も2名留学しており、それぞれ42年、43年卒業、獣医師となって帰国。日韓併合後も畜産科、農科とも、大正時代後期には養蚕科も、卒業生が韓国で活躍された。小生の同級生道地八重人君も韓国に渡った一人である。

 小生が昭和21年6月上海より復員した翌年10月、創立50周年記念式典祝賀会が催されたが、その数日前に全国中等学校相撲大会(中等学校としては最後の大会)において三農は団体優勝と個人戦優勝と3位で凱旋した直後で、町を挙げて称賛一色の雰囲気で、敗戦と占領下の沈滞を和らげた功績を忘れることは出来ない。祝賀会での久しぶりの対面の最初の言葉は全員同じで、曰く「お前生きていたか」であった。選手の沼尾君は容姿端麗で映画俳優になり、2回ほどその英姿を視たが、その後は不明である。

 小生三農卒業70年近くなった現代、まったく想像だにしなかったことが起こった。それは母校の校名が映画の題名なったこと。心優しい女性徒との真心が盲目の馬に通じた物語である。小生三農卒業以来馬専門の獣医師として72歳まで52年間月給をもらって来たが、立派な後輩に心から"参った"と脱帽し尊敬の念を深くするところで、前代未聞の美談を教育界で活用し、全国の高校生必見の方策を講ずることが、緊急の課題とまで思い込んでいる毎日である。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究員、医学博士)