追憶 私の歩んだ道

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第3回
根 岸  勲

 昭和35年春、新入生を迎え私達も2年生となり、高校生として少しは心にゆとりも出てきた。いろいろと新入生に指導する立場になり、そんな自分が嬉しく、得意顔になって何かにつけ教えたものだ。友達も多くなり、部活に農業クラブ活動、そして遊びにと時間を惜しまず精一杯動き回った。しかし、貧乏生活は相変わらずで、休みにはアルバイトが私を待っていた。

 農業クラブでは、先輩の奨めで農事弁論に挑戦することになり、私は農家出身でありながら米がとれない開墾地の実情を訴えることとした。

 この弁論と前後して、兄幸雄が地域の団長となり、県庁に陳情を続け、やっと昭和38年に開田工事が始まり、翌年には待ちに待った黄金色の稲穂が頭をたれ、村人全員が喜びに沸き立った。しかし、働き続けた母は収穫直前、一番米を口にすることなく他界した。義姉りさ(長男の嫁)は「初めての米を義母に食べさせたかった」と後々までも口癖のようにとなえていた。

 話が横道にそれたが、私は弁論という慣れないことに挑戦したが、文章を書くことが苦手で表現力にも乏しく、県大会までは出場したがそれ以上は進めなかった。でも大勢の前で発表できたことが、"自信"という大きな収穫を得、後の生き方に大いに役立ったと思っている。

 苦手の文章力を高めたいと苦慮していたこの時期、農業クラブの機関紙に掲載されたすばらしい投稿に目を奪われた。それは北海道のある高校のサチコさんという生徒の書いたものでした。とっぴではあったが文通を申込みたくなり、住所が分からないので学校に直接手紙を送った。このような失礼なことでは返事は貰えないものとあきらめていたが早速返信が届いた。その文面のうまさと達筆に脱帽、何と文通を快く受ける旨の返書があった。嬉しくて自分を制御するのがやっとの有様であった。さて、困ったぞ!直ちに文章の綴り方、ペン習字の練習を真剣に取り組みながら文通を続けた。いわば彼女は私の恩師のような存在でした。余談だが、文通はお互いの家族の理解の下に、細く長く現在も続いており、先方は生涯にわたり尊敬し得るご夫婦と思っている。

 2年生の2学期には将来の進路を決めなければならず、教師を目指していた私は大学進学希望でした。しかし実家のことを考えればこれ以上の負担はかけられず、結局就職を選択した。それ以降投げやりな気分を抑えきれず、勉学の気力も失せ手の付けられないほど荒れた。今考えると恥ずかしい限りだが、担任の先生に随分迷惑をかけた。

 そんなとき畜産科のヒロシと知り合った。キリリとした美少年で、しっかりした話が出来る人で、なぜか馬が合いそれ以降熱く青春を語り、残り少ない高校生活に悔いの無いようお互い頑張ろうと励まされ、私はハッと目が覚まされました。私の立ち直りは彼に負うところが大きく、クラスが違ったが無二の親友として、現在も家族ぐるみの付き合いが続いている。

 夏休みが終ると、生徒会、農業クラブ、部活と3年生が引退を迎える。こんなときヒロシが生徒会長に立候補すると語り、私は応援の約束を取り交わし票集めに奔走した。その結果みごと当選を果たした。一方私は農業クラブの書記に当選、お互い喜び健闘を誓った。

 昭和36年最上級生になり、担任は竹林理先生でしたが、私は早速呼ばれ2年生のときの

生活態度を厳しく叱られた。そして3年生の条件はクラスの上位に入ることで、「君にはその実力がある」とおだてられ、私はその気になって頑張り、約束を無にしなかったと自負している。先生の巧みな誘導の手法、うまさを教えていただいたことが、後の社会生活にどんなにか役立ったことか、感謝の念でいっぱいである。

 6月早々に三本木営林署(林野庁所管)に就職が内定、病床の父が自分の職場の後を継いだと思ったようで、たいそう喜んでくれた。夏休みの1カ月間営林署に実習することになり、国立公園である十和田湖近くの山林の測量に従事した。防災工事設計のための大事な仕事であったが、最初は張り切り真剣に取り組んだものの、連日アブやハチに追いかけられ、おまけに指導者が昼から酒を飲んでいるさまを目の当たりにし、嫌気も手伝い「二度とない青春を、こんな山の中で終らさせてたまるものか」との思いが胸をよぎり始めた。(つづく)