食の安全・安心と人生

沢 谷 廣 志

○ 入学の経緯と三農生活

 私は終戦直後、上北郡横浜町陸奥横浜で農家の三男として生まれ、家業から「家畜は家族の一員」を学んだ。

 幼いころ大切に飼っていた母牛が急病になり、治癒の見込みなく"切迫と殺"され、業者が食用として処理場に運んで行った。そのとき、哀れみと悔しさを感じたことが、人生の転機となりました。

 高校進学は両親から「将来のことを考えれば勉強が必要、経済的に苦しいが高校まで行け」と言われ決断。通学は無理で寮生活(桜風寮)となった。

 3年間の母校畜舎のアルバイト(搾乳・加工等)で、勤労と畜産を学んだ。朝夕の作業は辛かったが、日当35円は授業料と多少の小遣いも確保でき助かった。寮生活では、パン工場に日参し、くずパン(今日の消費期限切れや非売品)で空腹をしのいだ。このような苦労の連続でしたが、昭和37年3月に三農を卒業した。

○ 大学進学と学生時代

担任から、東京の獣医大学への推薦入学をアドバイスされ、家族の支援も不可能と

思ったが、両親と兄に直訴。結果は"相続放棄、学費の半分は自分で稼ぐ"など、厳しい条件ながら承諾を得た。入学後は夢中でがんばったが、学業と生活面で試練が待っていた。

 授業は語学で苦労し、生活では1年目で寮の全焼事故に遭遇、専門書・卒業記念アルバムを含め全て消失。かろうじて最短で卒業・国家試験に合格、獣医師の免許を取得することが出来た。

○ 公務員獣医師の任務

 神奈川県庁に就職したが、家畜の命を助ける獣医でなく、安全の付加価値をつける公衆衛生獣医となり、後悔しつつも天職と考え勤務した。

○ 安全・安心への挑戦

 食の安全確保は赴任以来の使命であり、生産者と消費者間の「食の安全・安心」、特に食肉衛生検査の任務を担当した。

○ 一切れより安全なお肉

昭和41年頃は、安全よりむしろ食料確保が優先さる時代だった。その後経済成長

期に入り、食文化の変遷と肉食の進展に伴い、家畜飼養形態が激変した。多頭飼育・密飼いの弊害、動物用医薬品・農薬等の残留、O157感染症、海外伝染病の進入、人獣共通感染症等を経験した。平成13年牛伝達性海綿状脳症(BSE*当初は狂牛病)の国内発生に至り、牛肉が一口も食べられない日々を迎えた。

○全頭検査導入

 この時期、日本は世界に例を見ない"牛の全頭検査"の導入に踏み切り、食肉衛生検査及びと畜場に厳しいBSE対策が課せられた。列記すれば次のとおり。①全頭数検査体制確立、②生体検査強化・個体識別対策、③SRM(特定危険部位)除去・保管・焼却等対策、④安全な、と畜・解体方法の開発・導入、⑤感染牛発生時対策、⑥廃棄物レンダリング対策(非飼・肥料化等)、⑦O157等、食肉処理の微生物制御対策、⑧高齢廃用牛処理対策、⑨消費者・業界への安全証明・マスコミ対策、⑩関係機関等連携強化

○ 我が人生を掛けた戦い

県の地方の一所属長であったが、全国食肉衛生検査所協議会の会長職の立場から、

厚生労働省等と激論の末、国の全面的支援の下、発生から1カ月で「BSE全頭検査」と安全処理体制を構築し、全国一斉に開始できた。

 危機管理の欠如から発生した最大の食品事故であるが、我が人生無二の戦いであり、全国の関係者、消費者である国民の賛同が得られ、今日の「安全な国産牛肉供給と消費ルール」、即ち「農場から食卓まで」・「From Farm to Table」が確立されつつあり、まさに感無量である。

○ 食の安全・安心と信頼

BSEの発生を機に、国民の健康確保を命題に食品安全基本法の制定をはじめ、各種の法整備がなされたが、近年になって産地偽装、期限や表示の改ざん、有害物質残留等、食の安全や消費者の信頼を裏切る事案が続発し残念である。

世界的食糧危機と輸入依存のわが国で、農業政策見直しと自給率向上の一歩を踏み出した今日、まさに母校三農高の教育と、卒業生の活躍が期待される日が到来したと思っている。

○ 人生・夢叶う

 己の未熟に気づき、公務の合間に大学院学外研究員として研鑽した。「現場は宝なり」

の想いと研究材料に恵まれ、昭和57年、獣医学博士の学位を授与され、亡き母の墓前に報告でき、唯一の親孝行が叶えられた。なお、学位の取得は、大先輩佐川孟三医学博士の存在が支えになった。

 終わりに、十和田出身・竹内重正氏の配慮で、北里大学会場にて、「BSE検査と発生時の対応」と題し、関係者への特別講演をさせて頂き、故郷へのささやかな恩返しができ深謝すると共に、同窓生各位のご発展をお祈りする。(編集部注*S36年度畜産科卒、三農時代、生徒会長として名を馳せた。)

2009年02月28日 | カテゴリー: 会報


このエントリーをはてなブックマークに追加



Check