会報

2010年会長メッセージ

陽はまた昇る、あきらめないで

三農東京同窓会会長  池 畑  守

日本のトップがころころ代わる。庶民の暮らしは一向に改善されない。国内政治の安定で将来を見定めた経済運営をお願いしたいものです。

 さて、去る5月18日に同窓会本部会長の東 昭悦さんが御逝去されました。昨年の総会で、十和田市役所を定年退職されていたので会長に選任され、これから大いに会の発展のため働いてくれるものと、われわれも期待しておりましたが、誠に残念でなりません。御冥福を心よりお祈りいたします。

 昨今は、不景気が中国・インド等の少数国を除いて未だ回復せず、日本は不況のどん底から抜け出したとはとても思えない。東京近郊を除く各地方・特に十和田市周辺のシャッター通りには泣けてきます。これだけ不景気が続くと農家の売る農産物の価格下落にも波及し、収入の減少が懸念されます。宮崎県で猛威を振るっている家畜伝染病「口蹄疫」は畜産農家の経済的損失と、全国の畜産農家は将来に不安をかかえている。初動体制の遅れが招いた人災とも言える。一日でも早い終息を願うものです。

 このような状況をみると、大学生、高校生の就職活動に大きく影響して、本人はもとより親も心を痛めております。でも負けてはいけません。景気には一定の循環があり、また景気は回復します。まじめに勉強・仕事をしている人には"陽はまた昇る"のです。同窓会の仲間には、健康に留意し日々を送ろうではありませんか。

 来る9月12日は三農東京同窓会総会・懇親会が開催されます。お互いの親睦を深め、日ごろのストレス発散ができる楽しい集いにしたいと思います。万障お繰り合わせのうえご参加くださるようお願い申し上げます。

10年08月12日 |〔 会報 〕

2010年校長メッセージ

移転から四十年

三本木農業高等学校 校長 遠藤智久

桜はまだ蕾の状態なのですが、田打桜(辛夷)がようやく咲き、「北国の春」の季節を迎えました。また、奥入瀬川では、放流されたサケの稚魚が、太平洋での長旅に向けて川を下っています。

 三本木農業高校に赴任して三年目を迎えました。同窓生の皆様には、いつも温かいご支援をいただき、心から感謝いたしております。

二百七名の新入生を迎え、全校生徒六百十一名で新学期がスタートしました。現在生徒たちは、昭和四十五年から続いている伝統の「全校田植え」や高校総体、そして、農業クラブ連盟県大会に向けて頑張っているところです。

昨年度の生徒たちの様子をお知らせします。部活動では、東北高総体(相撲:団体優勝)、インターハイ(アーチェリー:男子団体三位、女子団体八位)、全日本高校馬術大会(個人二位)等において健闘したほか、文化部では、写真部が今年度の全国高総文祭に出場することになりました。農業クラブ活動では、全国大会で二つの最優秀賞(農業鑑定競技 区分:農業機械と畜産《文部科学大臣賞も受賞》)と六つの優秀賞を受賞しました。その他、動物科学科の卒業生が「犬用米ぬかクッキー」で念願の特許を取得しております。

また、この三月に卒業した生徒(二百四名)の進路状況の詳細については、ホームページに掲載してありますのでご覧ください。厳しい経済情勢の中で、就職希望者(卒業生の半数)は、お陰様で全員就職することができました。

 今年度は、十二月の東北新幹線全線開業による経済効果に期待が寄せられる中で、十和田市は、ゆかりのある著名人を「十和田奥入瀬観光大使」として任命し、イベントなどで市のPRをしてもらうことになりました。その大使の一人に、教育作品として全国の高等学校で上映会が相次いでいる、映画『三本木農業高校、馬術部』監督の佐々部 清さんが選ばれました。現在、環境教育の推進が学校教育の重点課題となっていますが、この機会に、たくさんの児童・生徒にこの映画を見てもらえるように、学校としてもPRに努めたいと思っています。

 さて、高清水の現在地に移転してから四十年が経過し、施設・設備の老朽も目立つようになりました。こうしたことから、今年度は、第一体育館の改築が計画され、四月から解体作業に入りました。今年度中に柔道場と剣道場を備えた体育館が、ほぼ現在地に完成予定となっております。また、環境を考慮し学校施設の整備推進事業の一環として、太陽光発電(約20キロワット)装置の設置も予定(九月に完成)されています。

 最後になりましたが、三農東京同窓会のますますのご発展を祈念するとともに、今後とも母校への温かいご支援をお願いしてメッセージとさせていただきます。十和田にお越しの祭は、どうぞ母校にお立ち寄り下さい。(4月23日記)

10年08月11日 |〔 会報 〕

2010年同窓会長メッセージ

三農校の大きさを実感(遺稿)

三農同窓会会長  東  昭 悦

昨年9月、会長に選任されて始めての東京同窓会総会にお招きいただきましたが、その規模といい熱気といい大変盛大なもので、驚きとともに力強さを実感しました。首都圏という"生き馬の目を抜く"言われるところで、仕事の合間をぬって役員を中心に組織の運営、諸行事など、果敢な活動に対し心から敬意と感謝を申し上げたいと思います。

 さて、わが三農は一昨年創立百十周年を盛大に祝ったところですが、新たな歴史の歯車が回り始めました。農業クラブ活動においては、全国ベースで優秀な成績を維持しており、同窓生として喜びに耐えません。これは、今まで諸先生方が長い伝統の上に立った教えと、生徒諸君が目的意識をきちっと持って勉学に励んでいる結果と思います。

 平成21年度三農「賞状授与式」、「卒業式」に出席させていただきましたが、毅然としながら、広い自然を想わせるスケールの大きい、まさに悠々たる「日本一」の卒業式でありました。これは一朝一夕で出来るものではなく、同窓生が、開拓精神と母校愛に基づく"伝統ある三農"に一歩一歩育て上げた賜物ではないでしょうか。三農校の大きさを実感しました。

 近年のわが同窓会は、さしたる問題はなく、各支部の支援のもとに活動をいたしております。支部の特徴を若干申し上げれば、支部ごとにいろいろなイベントを取り込み、活動をしているところが出てきました。例えば下北支部においては、同窓生の経営する圃場からのブルーベリー摘みとか、あるいは栗拾いなど、サークル活動と小旅行を兼ねたような催しなどで、会を維持発展させようという機運が感じられることです。

 それから、ややもすれば役員の高齢化が見られたが、最近では五十歳代の前半への若返りが目についてきました。大変喜ばしいことであります。世の中が混沌としているだけに、こういう時こそ横の連携を密にして、やれるところから実行にしていく、そして母校発展に少しでも寄与できればと、この"若返り"を期待と共に喜ばしく思っています。

 終わりになりましたが、支部活動の重要な広報活動を、こうした会報を発行できる東京同窓会の組織体制とそれを動かす役員諸氏に、心より敬意を表す次第です。


東 会長急逝

 同窓会本部会長東 昭悦氏には、5月18日急逝致しました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

10年08月10日 |〔 会報 〕

人間万事最後が群馬 第1回

人間万事最後が群馬 第1回

橋 本 新 一

2008年10月初旬、私は、上州は群馬産午年生まれの愚妻を同伴して、今はやりの郊外に出来ている大型ショッピングセンターにある映画館で「三本木農業高校、馬術部」を観に行ってきました。映画の内容はともかく、スクリーンに写しだされた四季を通してのあの鮮やかな景色が今もって目に焼きついて離れません。現校舎に移ってから40有余年になるというのに、一度も足を踏み入れたことはありませんが、あの映画を観たことでイメージがすっかり出来上がったような気がします。しかし、私には旧校舎小稲の桜だけは消すことが出来ません。とくに「桜風寮」周辺の桜、これはこれは見事でした。寮から見える池に、花筏が浮かぶ様は、印象深く私の脳裏に残っており、桜吹雪の映像とダブらせて目頭を熱くしてしまいました。

 さて、私は、現在群馬県藤岡市というところに住んでおります。在住44年目に入りました。我が家からは赤城山、榛名山、妙義山の上毛三山や群馬・長野県境にある浅間山が見え、遠くには白根山や谷川連峰が望めます。

 藤岡市は高速道路の関越道と上信越道の分岐点にあり、東京まで約一時間のところにあって、車を利用する者にとってはどこに出かけるにも好位置にあります。気候的には、たまには年一~二度雪が降ることがありますが、住みよいところです。ただ冬場の空っ風には慣れないと冷たく感じるようです。そんな群馬に住み着いていますが、もともと縁もゆかりない土地でした。

 人間というか人生には節目と転機というものがあるように思います。たとえば、節目には義務教育が終わったとか、高校・大学を卒業したとか、あるいは成人式を迎えたとか、また、会社・役所を定年退職したなどがそれに当るのではないかと思います。

 そして、転機というのは、本人にとって良いことにしろ悪いことにしろ、何らかの出来事があったということであろうと思います。結婚とか運命を決定する出会いも転機に入るとおもいますし、役員に昇進したとかいうように転機というのは良い方に使われることが多いように思われます。

 しかし選挙に出るようなことも、転機が訪れたと表現するんではないかと思いますが、それも後になって結果が判ってから使われ、落選した場合にはあまり使われないような気がします。

 ところで、私に転機が訪れたのは1966年10月26日のことでした。その時、私は母校で農業土木の実習助手でお世話になっておりました。この日、日教組が午後から半日休暇闘争を行い、組合員だった私は校長の制止にも耳をかさず参加したのでした。(つづく)
〔昭和36年度農業土木科卒業〕 

10年08月09日 |〔 会報 〕

追憶第4回

追 憶 《私の歩んだ道》 第4回

根 岸  勲

昭和36年夏営林署の実習を終え、高校生活を楽しんでいたが、クラスメートが進学や就職活動に一生懸命取り組んでいるのに、のんびりしている自分がこれでいいのかと、自問自答を繰り返し、都会には絶対に行くまいと決めていたのに、このまま一生山仕事で終わっていいのかと自己矛盾に陥ったものの、日増しに都会への想いがつのっていく思いを抑えることが出来なくなっていた。

 担任の先生に東京方面の就職口をお願いしても、「未だ決まっていない生徒が多い中で、君のように営林署に内定している者は後回しだ」といわれ、悶々とした日が続きました。

 11月中旬担任の先生から「東京のマッチ会社から求人があるが、どうする?」と話があり一も二もなく飛びつきました。入社試験(筆記)、面接を終え待望の内定通知をいただき、喜び勇んで親に相談もせず会社と仮契約をしたのです。その年の暮れ会社から正式に入社通知書と、上京する際の支度金が実家に送付され、父親にバレてしまったのです。世の中のことなどよく分っていなかった私は、営林署との二重契約などまったく頭に無く、父親にきつく叱られたが、私の決心に父も折れ、営林署へ一緒に頭を下げに行ったが、担当課長から「君は若いんだから東京での経験も良いだろう、一年間籍を置いておくから」と有難いお言葉を頂きました。しかし私は負け犬だけにはなりたくないとの思いも強かったので、私の選んだ道を進むことにしたのです。公務員試験に合格していたのですが、お役人の道はこうして私の前から永久に消えた瞬間でした。

 マッチ会社とは播磨燐寸(株)(ハリママッチ)と言って商標である馬の絵柄のマッチ箱
は、普段目にしていたものの、会社名など覚えていなかったが、北海道、東北に強く、多くの代理店を持ち、業界第二位であることを初めて知りました。同級生からは"すごい会社に就職したな"と羨ましがられたものです。

 残り少ない高校生活も有意義に過ごし担任の竹林先生との約束も果たし、卒業式は生涯忘れることの出来ない心に残るものでした。担任の先生の叱咤激励、友人たちの温かい友情等、たくさんの思い出を胸に、昭和37年2月後輩たちに送られ、まだ雪の残る母校を後にした。

 こうして無事卒業出来たのも、貧しいながらも家族の血の出るような支援、部屋を無償で提供してくれた小稲の叔母、アルバイト先の家具店主、先生方のご指導等、おのおののご恩は今でも忘れるものではありません。

 昭和37年3月15日、涙を流し続ける母と義姉に見送られ三本木駅を出発した。三沢駅で夜行列車に乗り継ぎ大きな夢と希望を抱き、一路東京上野へと向かったのでした。(つづく)〔昭和36年度農業科卒業〕

10年08月09日 |〔 会報 〕

三農生の頃 第11回

三農生の頃 第11回

佐 川 孟 三

三農獣医科を卒業すれば獣医師になれる最後の卒業生33名も、創立50周年を祝った昭和22年10月には、戦死等で三分の一が亡くなり、現在では旭川市に在住の鈴木郁一君の二人だけになった。

 明治31年10月、人口5千人の三本木村に、県下で弘前、八戸中学校に次ぎ、三番目に
我が青森県農学校が開校した。第1回生として畜産科生(獣医)20名が入学、翌年4月には農科生20名が入学した。明治34年10月畜産科生11名、同35年3月農科生18名が卒業した。以降入学は4月、卒業は3月となったが、卒業すれば獣医師になれるので入学志望者が全国から殺到し、高橋秀雄先生が明治39年に入学したときは30名募集に対し二百八十五名で、受験者は中学校卒業者、小学校の先生、軍隊の下士官等で、小学校高等科卒は不利だったようで、三本木小学校高等科より20名受験し、合格したのは高橋先生1名だけだったという。全体で募集定員以上の36名入学し、毎年5、6名が落第と退学により、卒業した者は36名中20名、上からの落第者を含め27名卒業したそうである。志願者が多いので学校側の厳格さが度をこしていたのではないかと、高橋先生がコメントして居られた。

 高橋先生は三農創立時小学校1年生(御尊父は三本木村収入役)で、自宅の裏が三農敷地であったこともあり三農入学までの8年間、三農の変遷をみて育った。三農に今まで見たことも無い動物が入ると、近郷近在はもとより相当遠方から弁当持参で見学に来る人が多かったと言っておられた。最初の動物は豚で鵞鳥や七面鳥も人気があり、六面鳥や八面鳥もいるかと本気で質問する人もいたという。

 明治34年5月19日、第1回運動会が開催された折に、八戸二中より教員生徒百余名、三本木小学校全員、近郷の小学校生徒、上北郡の官公庁幹部、地方議員等、人口五千余人の三本木村に二千名参集し、東奥日報が相当の紙面を割いて報じたそうで、その盛会ぶりが想像できる。
 三農の卒業生が当時の韓国で活躍しており、そのせいか明治39年に高橋先生のクラスに留学生が韓国から2名、翌年も2名留学しており、それぞれ42年、43年卒業、獣医師となって帰国。日韓併合後も畜産科、農科とも、大正時代後期には養蚕科も、卒業生が韓国で活躍された。小生の同級生道地八重人君も韓国に渡った一人である。

 小生が昭和21年6月上海より復員した翌年10月、創立50周年記念式典祝賀会が催されたが、その数日前に全国中等学校相撲大会(中等学校としては最後の大会)において三農は団体優勝と個人戦優勝と3位で凱旋した直後で、町を挙げて称賛一色の雰囲気で、敗戦と占領下の沈滞を和らげた功績を忘れることは出来ない。祝賀会での久しぶりの対面の最初の言葉は全員同じで、曰く「お前生きていたか」であった。選手の沼尾君は容姿端麗で映画俳優になり、2回ほどその英姿を視たが、その後は不明である。

 小生三農卒業70年近くなった現代、まったく想像だにしなかったことが起こった。それは母校の校名が映画の題名なったこと。心優しい女性徒との真心が盲目の馬に通じた物語である。小生三農卒業以来馬専門の獣医師として72歳まで52年間月給をもらって来たが、立派な後輩に心から"参った"と脱帽し尊敬の念を深くするところで、前代未聞の美談を教育界で活用し、全国の高校生必見の方策を講ずることが、緊急の課題とまで思い込んでいる毎日である。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究員、医学博士)

10年08月08日 |〔 会報 〕

ベトナム報告(最終回)

ベトナム国・麻しん(はしか)ワクチン
技術移転プロジェクト・終了報告 第5回

北里研究所  馬 場 建 一

本プロジェクトは06年7月より、ベトナム国ワクチン生物製剤研究・製造センターが、新設の麻しんワクチン製造所においてWHO-GMPに適合した麻しんワクチンを年間750万ドーズ製造できる能力を獲得することを目標として4年間の計画で開始して、10年3月で終了した。プロジェクト開始以来、北里研究所として最大限の努力した結果、技術移転は無事にできたと考えている。

 4年間の経緯は、06年度は、新施設の立ち上げ最優先課題として取り組み、07年度は最終製造工程及びその関連部門の専門的技術の移転を完了するとともに、小スケールにて製造及び品質管理技術を確立でき、人に投与する臨床試験用サンプルを供給することもできた。それに引き続き、08年度はシードウイルスからの原液製造工程から始まり最終製造工程及び品質管理技術を確立し、WHOの品質基準に適合し、人に投与できる品質の製品を製造できようになる目標を完遂することができた。

 最終年度である09年度は、過去に移転した製造及び品質管理技術を総合的に活用して、大量の製造技術を移転することであり、プロジェクト目標である750万ドーズのベースでワクチンを製造できることを検証することであった。同時に、ベトナム国が構築したGMPがWHO-GMPに準拠したベトナムGMP(VN-GMP)に適合し、ベトナム国国家検定機関に承認されることであった。ベトナム国が大量製造できる技術能力を有することが確認でき、かつ、ベトナム国側が09年6月から9月にかけて実施した臨床試験において高い安全性と有効性が確認され、12月に販売承認を取得した。従って、プロジェクト目標の2つの指標を十分に達成し、ベトナム国ワクチン生物製剤研究・製造センターがワクチン製造業として機能しはじめたことを証明することができた。ここで、このように事業が進んだか考えてみると、日本国内作業と現地作業にあった。北里研究所は、製造及び品質管理の実務を効率よく指導し、技術移転の実効を挙げるため、また、WHO-GMPの要件を満足するために適切な品質保証体制を確立することが重要であると考え、そのひとつの手法である基準及び手順の書類化の充実を図るために、専門的技術を活かした教材が必要であった。そこで、本プロジェクトでは、JICAの理解を得て、初年度よりプロジェクトのステップ毎に国内作業として教材及び現地ナショナルスタッフを経由して国内から指導し、年間計画及びバリデーション進歩状況に応じて必要となる教材をタイムリーに作成(日本語または英語)し、ベトナム語に翻訳した後、それらを現地の指導に活用することができた事だと思う。

 最後に、小生がこのような大事業に従事できたのも、ひとえに三本木農業高校で学んだことが大きいと、私は感謝しています。(北里研究所品質部門・部門補佐、昭和43年度畜産科卒)

10年08月07日 |〔 会報 〕

農業の甲子園

上毛新聞(群馬県)5月4日付けの"Teenいいじゃん"欄に、三農の竹ケ原美鈴さんが、農業クラブ全国大会の畜産部門で、最優秀賞と文部科学大臣賞のダブル受賞を報じていましたと、群馬県藤岡市在住の同窓生、橋本新一さん(36農土卒)から編集部にfaxが届きました。本人曰く「地元紙に掲載された後輩の立派な業績の記事に、感激のあまり涙が止らなかった。」そうです。こうして近年三農は全国区に躍り出、まことに慶賀、今後さらに期待したい。おめでとう!

10年08月06日 |〔 会報 〕

バーベーキュー祭り

 青森県高窓連主催のバーベーキュー祭りが、21年10月4日、晴れ渡った青空のもと、立川の昭和記念公園内で行われ、我が三農同窓会では、お刺身馬肉ブロック、三沢沖のサンマ、スルメイカが用意し、お刺身をおいしく戴いた。十和田名物の「バラ焼き」もふるまい友好を深めた。三農は13名参加。

10年08月05日 |〔 会報 〕

高窓連祭

高窓連(神秀武会長)主催の"高窓連祭"が、22年4月18日百十名の会員とご来賓が集い、アルカディア市ヶ谷にて開催されました。寒冷と雨続きでしたが、当日は朝から日本晴れ"祭り"にふさわしい日和となりました。

 会長挨拶の後、支部が抱える問題について、五所川原工業高校支部の例を引き検討がなされたが、各支部とも会員把握の仕方、名簿の整理が悩みの種になっているようだ。

 今回のカワラバンはカラー刷りでなかなかの評判。アトラクションとしてテノール歌手滝澤健作さん(芸大出身で佐々木文雄三高会支部長の甥)が「オーソレミオ、千の風になって、乾杯の歌」の3曲を披露しそのボリュームある美声に喝采。

 各高校支部から寄付された青森県の銘酒利き酒コーナーも設けられ、郷土のお酒に舌鼓。三農は鳩正宗(株)の「八甲田おろし」を提供。終わりにあたり恒例の「高校三年生」を輪になって歌いましたが、みんな学生時代の顔になっていた。手締めは我が三農会長池畑守さんが行い祭りを締めくくりました。

10年08月04日 |〔 会報 〕

青森県高校総体報告

アーチェリー女子・団体優勝

青森県高校総合体育大会が6月5~7日まで開催され、各競技で熱戦が繰り広げられました。三農はアーチェリーで、女子が団体優勝を飾り、男子は3位に入賞。期待の相撲は五農と決勝を争ったが、惜しくも春季大会に続いて準優勝に甘んじた。ラクビーは3位入賞、サッカーは、男子、女子とも3位入賞(女子参加校は7)であった。

今年はこのように若干低調気味でしたが、相撲とアーチェリー女子はインターハイに出場が決定しており、また、馬術は東北大会で優勝し全国大会(沖縄)に駒を進めました。

なお、女子アーチェリー部の斉藤春菜さんが、アジアグランプリー大会日本代表の18歳未満、4人枠に選ばれ、台湾での大会に出場します。三農は底力があります。必ずや期待に応えよい成績を挙げることでしょう。"がんばれ! 三農"

10年08月03日 |〔 会報 〕

毎日農業記録賞の優秀賞

毎日農業記録賞の優秀賞に輝く

昨年11月6日、三農校教諭小笠原理高氏が、農業関係の賞では権威のある「毎日農業記録賞(一般の部)の優秀賞を受賞されました。研究テーマは"農業高校生の生きる力をはぐくむために~学校設定科目「営農シュミレーション」を通じて"というもの。生徒に仮想の会社を作らせ、一から事業を起こすもので9年目を迎えた。会社設立から商品が消費者の手に届くまでの工夫や姿勢が問われるもので、指導者も生徒たちも長期間真剣に取り組んだ賜物でしょう。生徒指導には小笠原理高先生の他木村亨先生(現在名久井農校)、石田尚将先生が当たりました。

10年08月02日 |〔 会報 〕

37回総会報告

第37回三農東京同窓会・懇親会は、昨年9月13日(日)東京市ヶ谷「アルカディア市ヶ谷」にて、ご来賓、会員120名が集い、盛大に行われました。

  総 会

 開会のことばは下山光孝副会長が行い、物故者への黙祷をささげた後、三農校歌斉唱は根岸勲副会長の音頭で高らかに歌い、各々が高校時代にタイムスリップしたかのようなひと時を味わいました。続いて池畑守会長が挨拶に立ち「母校三農が昨年創立百十周年記念行事を、皆様のご協力で無事終えることができました。心から感謝します。昨年秋に『三本木農業高校、馬術部』という映画が封切され、我が母校も十和田市の自然とともに全国に知れ渡り、やっとメジャーの仲間入りをしたかなと思っています。これからも母校の発展のために尽くしていきたい。」と。 このあと升舘廣美理事長から20年度事業報告が、坂田治子会計理事から決算報告が、会計監査報告が中野渡義雄監査理事からそれぞれ行われ、承認されました。次に21年度事業計画が升舘理事長より、予算案が坂田会計理事より提案があり、承認されました。

 役員改選では、顧問加藤省三氏と大久保順蔵氏を名誉顧問に、常任理事の松橋正一氏(昭45年度農業土木)を事務局次長に、新理事に佐々木透氏(昭45年度畜産)を推薦したい旨提案があり、全会一致で承認されました。

閉会のことばは根岸勲副会長がつとめ、斎藤和敏副会長の司会で滞りなく終了しました。


 懇 親 会

いよいよお楽しみの懇親会です。世の中の景気がぱっとしない中、会員の出足も今一つとの感が免れませんが、懇親会の開会のことばは斎藤和敏副会長(昭45年度土木)が行いはじまりました。

つづいて池畑守会長が挨拶を述べました。「本日は好天にも恵まれ、遠くからお集まりいただき感謝する。青森県人会から和田敏美氏、東京青森県高校同窓会連合会から松野順三氏、母校校長遠藤智久先生、母校同窓会長東昭悦氏をはじめ、友好団体、東奥日報社、デーリー東北新聞社、各高校同窓会支部の方々、われわれ会員一同、心より歓迎いたしたいと思います。世の中は不景気の荒波で、多くの会社は赤字経営を余儀なくされているが、中には業績の良い会社も存在する。そういう会社は普段の経費節減を徹底していると聞いている。私どもの母校はその不景気を越えまして百十周年を去年迎え、会社ではありませんが黒字経営をもって、学校が繁栄していくことを期待している。昨年は"三本木農業高校、馬術部"の映画上映に際し、青森県人会並びに高校同窓会連合会の皆様には、入場券販売に多大なご協力を賜り、厚く御礼を申し上げる。わが母校もなんとなく全国的に知られるようになりました。農業の衰退ムードをここで明るいものとするためにも、農業高校の役割が問われるが、同時に新しい方向づけが必要になってくると思う。」

 母校本部同窓会長東昭悦しは「この6月21日の総会で、佐々木敏雄前会長が体調の都合で辞められることになり、急遽若輩者の私が会長を引き受けることになりました38年度農業科卒業の東昭悦と申します。昨年は創立百十周年行事が行われ、皆様からのご協力により成功裏に終了することが出来ました。心から厚く御礼申し上げます。ついこの間、三農の体育祭に招かれ、行ってきましたが、三農魂を発揮し三農健児のはつらつとした様に、感動すると共に伝統の重みを強く感じました。これも遠藤校長先生はじめ先生方のご指導のたまものと、有難く思っています。」と述べました。

 遠藤智久校長は「就任2年目になりました。同窓生の皆様からは本当にお世話になっており、心から感謝申し上げます。昨年百十周年行事の一環として、吹奏楽の楽器と大太鼓を買っていただきました。吹奏楽部員が16名いますが一生懸命練習に励んでいます。現在6学科で六百十八名の生徒が在籍しており、活動の状況はお手元の4枚の資料にあるとおりです。運動部では馬術と相撲とアーチェリーが良い成績をのこしている。平成23年に青森県でインターハイが開催されますが、それに標準を合わせてがんばっています。

 農業クラブでは、青森県の大会においてはかなり独占状態であり、福島大会、東北大会で3つプロジェクトの中で1つが最優秀ということで全国大会に進みました。

 太陽光発電施設を県内2校ですが、三農にも設置されることになり工事に入ります。それから青森県では初めてですが、フィランドから留学生1名(女子)を受け入れました。英語圏でないので言葉では四苦八苦ですが、一生懸命頑張っております。秋祭りには浴衣を着せて出しました。ハーバード大学出身の先生がおりますが、この二人が沿道の関心をもって迎えられたようです。それから昨年上映された"三農馬術部"DVDが5月に発売になりました。どうぞ買っていただきたいと思います。最後になりますが、若田さんがついこの前宇宙から帰還しました。その際宇宙空間に半年間保管されたマメ科の「ミヤコグサ」の種子を持ち帰りましたが、そのうち百粒ほど分けていただきました栽培実験することになりました。東北では本校だけですが《宇宙教育プロジェクト》と呼ばれその実験が非常に興味を引きます。今年もいろいろ様々な試みを進めています。」と近況報告がありました。


【ご来賓の紹介】

 各高等学校東京支部の皆様、青森県人会、十和田会などの友好団体、新聞社など40名のご紹介のあと、代表して青森県人会副会長和田敏美氏から挨拶、その中で10月31日に開催される青森人の祭典(上野精養軒)があり参加要請と、県人会への入会についてお話がありました。


  【乾杯・懇談】

 最長老の佐川孟三氏(昭和13年度卒)が乾杯の音頭、「新同窓会長が東昭悦さんですが、私が農学校のときに一級上に東精一先輩がおり、三農を主席で卒業、県知事から銀時計が贈られました。なんとこの方が新会長のお父さんです。そして今日展示販売に来ておられる東真之さんは(上北農産加工東京駐在)新会長の息子さんです。不思議なえにしを覚えます。」と結び高らかに祝杯をあげました。

 今回は新卒者の出席がなくちょと寂しかったが、17年経済科卒の芋田奈穂さんと同じく
佐々木春菜さんが参加され大もてでした。この後のビンゴゲームのお手伝を頂いたが、明るいキャラクターで会場を盛り上げてくれました。


  【アトラクション】

 三農出身初の演歌歌手村上勝行さん(36年度商業科卒)がこのたびデビューしました。地元では「駒っこサンバ」などで活躍している。今日は新曲「創年」と「寿情話」を、津軽三味線の斎藤友久さが津軽の旋律を演奏、最後には十和田市出身の歌手近江綾さんが「三つ葉葵の渡り鳥」のほか数曲を歌い上げました。


  【オ-クションとビンゴ】

 三農東京名物、三農直送のニンニク、ナガイモ、メークインなど4点を破格販売、またたくまに完売しました。ビンゴゲームは全員に当たる仕掛け、奈穂さんと春菜さんが頑張ってくれました。


  【閉会あいさつ】

 五十嵐八代榮副会長から「皆様のご協力のもとでこうして楽しく会を続けることが出来ます。本日は本当にありがとうございました。万歳三唱で締めたいとおもいます。バンザーイ、バンザーイ・・」目出度く終了しました。なお、二次会が別室で行われました。

10年08月01日 |〔 会報 〕

2010年会報編集後記

東昭悦本部同窓会長の原稿を受け取った直後、急逝の報に接し誠に残念。遺稿とさせて頂きました。このたびの編集に当たり福村安男さん(S41農業科卒)が、お手伝いしてくれました。1~2年は二人三脚で編集に当たりますが、その後は福村さんに委ねようと思う。馬場建一さんの「ベトナム報告」は今回で終了しました。5回にわたり仕事を通じての現地の報告ありがとうございました。広告にご協力をいただきました諸氏に、心より感謝申し上げます。k

10年07月30日 |〔 会報 〕

大久保順蔵先生御逝去

三農第十七代校長でありました大久保順蔵先生には、昨年10月に逝去されました。95歳でした。謹んで哀悼の意をささげます。先生は当会結成にあたり、上京間もない升舘廣美さん(現在理事長)等を指導され結成に漕ぎ着けたと聞く。平成9年の創刊号に「六百人の援農作戦」を、2号には「新渡戸稲造の鐘」を寄稿していただきました。

本当にありがとうございました。どうぞ安らかにお眠り下さい。

10年07月29日 |〔 会報 〕

会長メッセージ

"三農出身"を意識し行動を


三農東京同窓会会長 池畑 守

 日本は戦後、日本の進むべき方向として急速に工業化し製品を海外へ輸出し国民生活を豊かにした。その反面、外国からの圧力もあり食料品の60%を輸入にたよったので、日本農業が疲弊してしまった。

 米国のサプライローンの破綻からスタートし、百年に一度という不況に世界中が苦悩している。日本の今年の法人決算で、ほとんどの輸出産業及び銀行も赤字決算になり、政府も補正予算を組み国内の需要を促進させるため、ようやく農業経営に注目し始めた。

我が三農への期待は大きいものがある。

さて、昨年の10月、全国で「三本木農業高校、馬術部」が上映された。これには東京青森県高校同窓会連合会の協力を得て、入場券を売りさばいて頂き感謝申し上げます。映画を観て下さった仲間から連絡があり、①農業高校なのに馬術部があったの、②校舎と農場が広い、③景色が良い、④親子の絆がある、⑤なによりストーリーが良く泣けた、という評価を受けました。私達も、母校の高い評価を知っている方が多くなったので、他人と接するとき三農出身だということを意識して行動しよう。

三農東京同窓会も日本の縮図といえる高齢化が進行してきました。そこで、同窓会ホームページを立ち上げ(P6を参照)ましたが、同窓生の皆様に会の活動状況を知ってもらいたい。とくに若い世代の方に参加してほしいと思っている。

今年も、9月13日(日)に東京同窓会の総会がありますので、万障お繰り合わせのうえ参加して下さるようお願い申し上げます。今年の新人はどんな方々で何人出席するのか、楽しみにしている。

09年07月01日 |〔 会報 〕

学芸科学コンクール金賞

「学芸科学コンクール金賞」受賞について


青森県立三本木農業高等学校教諭 越  洋


 この度は、旺文社主催:学芸科学コンクールに「われら花咲爺さん~食卓に花を咲かせましょう~」のタイトルで研究論文を応募し、自然科学分野で金賞を受賞することができました。コンクールへの応募作品数は、全国の中学・高校を合わせて約2千の作品の中で最高の賞を頂いたことになります。これも一重に、三農同窓生の実績と期待に支えられ、

様々な面からのご協力により達成できたものと思い、この場をかりて御礼と感謝を申し上げます。

 これら活動の内容は、ストレス社会にありながら癒しを求める現代において、その役割を担う室内用の観賞植物の少なさを背景に、「室内花の開発」に焦点を当てプロジェクトを行った結果を報告したものです。この研究の課題は、「室内の日照不足をいかに解消するのか」です。室外で育てる花壇用の草花や鉢花を室内で育てると、光合成量が低下し生育不良や、光を求めて草丈が伸びすぎる徒長現象が発生し、草花が本来持っている生育機能を発揮できません。着目したのが、第6の植物ホルモンであるブラシノライドの生成抑制剤「ブラシノゾール」の活用です。この植物ホルモンを抑制すると、葉の内部で感じる機能が敏感になり、光感受性が高まると報告されています。ただ、室外植物へのブラシノゾール処理では、太陽光の強日射により、光感受性の高まった葉は葉焼けを引き起こしてしまい、植物への経済的な目的としての応用は難しいと思われていた物質です。それを、日照不足の室内で草花の生育に役立てようと考えたものです。

この実験は、独立行政法人理化学研究所より「ブラシノゾール」の提供を受け、当研究所の指導・協力のもと実施することができましたが、最初は失敗の連続でした。セントポーリアに処理した場合は、室内環境でも光感受性が高まりすぎたために葉焼け現象を引き起こし生育不良となり失敗。アスターで実験した時は、日長反応が鈍り従来のものに比べ開花期が大幅に遅れるという結果でした。消費者のニーズに応える開発の難しさに直面した瞬間です。その後、日長反応に影響されず葉焼け現象を引き起こしづらいパンジーで実験したところ、室内環境でも徒長せず、綺麗に開花させることに成功しました。処理による開花期間は3週間ですが、室内花用としての利用であれば十分な期間です。開発された草花は、食卓に彩りを添えたいという願いを込めて「テーブルパンジー」と名付けました。  

室内花は種類が少ない上に、その鉢花の代表である胡蝶蘭やカトレアは、高額であり一般家庭では、滅多に利用する事ができません。そのため、「テーブルパンジー」をリーズナブルな価格(300円)に設定し販売したところ、またたく間に完売できました。開発から商品化へ向けた取り組みも現在行っております。

 今回の受賞は、新しいものを開発し販売したことだけが評価された訳ではないと思います。農業の福祉的な活用を研究テーマとし、一般市民のニーズを捉え、最先端研究機関との連携により新しい技術開発の糸口を見えだし、また失敗しながらも成功に辿り着くことができました。生徒たちの「純粋な思い」と「着実な行動」と「観察力」が受賞に結びついたものだと感じております。現在は、ケイトウやミニバラでも室内花開発に成功し、「テーブルフラワー」シリーズとして、三農オンリーワン商品としての販売を目指しております。

 最後に、これまでの研究や報告は、生物工学研究室の前任者である木村亨先生をはじめ、研究に携わった生徒達の思いを引き継ぐことによって達成されたものであり、紙面をかり感謝申し上げ結びといたします。

09年06月30日 |〔 会報 〕

校樹悠久


青森県立三本木農業高等学校 校長 遠藤智久

 映画「三本木農業高校、馬術部」では、先人から受け継がれてきた地域の四季の変化や残雪の八甲田山が印象的でした。

 三本木農業高校に赴任して2年目を迎えました。同窓生の皆様には、日頃から母校へのご厚情を賜りまして、心から感謝いたしております。

 今年度は209名の新入生を迎え、全校生徒618名でスタートしました。昭和45年から続いている伝統の「全校田植え」も終わり、現在生徒たちは高校総体や農業クラブ連盟県大会に向けて頑張っているところです。

 昨年度は、東北高等学校馬術選手権大会や全日本高等学校馬術競技大会の本校開催、創立百十周年記念式典などの行事がありましたが、お陰様で予定どおり実施することができました。また、創立百十周年事業に際しましては、多くの皆様方からのご協力・ご支援により、和太鼓や吹奏楽部の楽器などを購入して教育環境を整えることができました。誠に有り難うございました。

 さて、昨年度の生徒たちの活躍は次の通りです。相撲部=高総体(団体)優勝、インターハイ3位(団体)、アーチェリー部=高総体アベック優勝(団体)、馬術部=全国大会3位(団体・個人)、農業クラブ=6競技で最優秀賞(県大会)、農業鑑定競技の区分・農業機械で最優秀賞(全国大会)、パテントコンテスト=犬用の「パパイン酵素入りクッキー」

が特許支援対象、全国学芸科学コンクール(旺文社主催)=自然科学高校部門で金賞、技術・アイディアコンテスト「テクノ愛08」(京都大学主催)=全国3位、ストップ地球温暖化「一村一品」大作戦全国大会=審査委員賞、日本学生科学賞=入選3等、など、生徒たちは生徒会活動や農業クラブ活動、そして各種コンテストにおいてよく頑張りました。

 ここで三農の様子をお知らせします。現在校地内には80種類以上の樹木があります。校門を入って最初に「ネムノキ」が両側にあり、そこから校舎まで300m道路の左右にある桜の下では様々な色のツツジが満開です。その他、サツキやナナカマド、「志岳寮」入り口にある藤棚の藤の花も見頃です。風にそよいでいる新緑の校樹に、本校の歴史と伝統を感じています。また、農場部では、花(約百の高校や施設等に販売)や野菜苗の販売、無農薬栽培のトマトやキュウリの収穫が始まりました。

 今、八甲田山麓では残雪の傍らでムラサキヤシオの薄紫の花、オオカメノキやウワミズザクラの白い花、そして、だいだい色のレンゲツツジが見頃です。十和田にお越しの際は、
どうぞ母校にお立ち寄り下さい。

 最後になりましたが、三農東京同窓会の益々のご発展を祈念するとともに、母校への温かいご支援とご協力をお願いしてメッセージとさせて頂きます。(5月22日記)

09年05月22日 |〔 会報 〕

小稲に三農があった

小稲に三農があったのは過去になった

                      

 三農同窓会長 佐々木敏雄


 先日、30代の女性市役所職員に「あなたは三本木高校の卒業生だそうですが、市民文化センターの時代ですか、元の三農跡地に移ってからの卒業生ですか」と尋ねると、「えっ!現在の三本木高校の地に三農があったんですか」と逆に尋ねられました。

 私は、三農が小稲にあったのはついこの間であり、十和田市民の誰もが当然知っていることだと思っていたので非常に驚きました。現在の高清水に移転したのは、つい最近のこととしか考えていなかったのです。

 そこでどのようになっているか調べてみました。今年の卒業生を入れて総卒業者数は19,961名、小稲での卒業者数は9,167名、高清水移転後の卒業者数は10,794名、とっくに

移転後の卒業者数が多く、54.1%にもなっている。それに小稲の卒業生は当然年配者が多いので、お亡くなりになっている先輩もあり、確認出来た方だけでも2,596名で、それを除いて計算すると生存者の67.1%が高清水の卒業生であるという計算になった。さらに高清水に移ってからどれ位経っているかというと、小稲最後の卒業は昭和42年3月で年齢は現在59歳であり、既に42年間も経っているのである。

 冒頭に紹介した例は無理からぬことと改めて再認識させられたのである。多分十和田市民も三農は高清水というのが普通になっているのであろう。

 創立百周年の頃、記念事業として「青森県農学発祥の地 青森県農学校跡地」というような碑を建立したらというアイディアも出たりしたが、三本木高校の敷地内であり、いわば他人の土地だからと立ち消えになったが、再考の必要性もあろうかと思ったりします。

(三本木高校は十和田市民文化センター前庭に建立してある。)

 現実として「歴史と伝統を誇る三農」というと矢張り小稲時代と考えるのは、どうやら古き先輩諸氏の郷愁に過ぎなくなったことを突きつけられた思いです。

09年03月31日 |〔 会報 〕

食の安全・安心と人生

沢 谷 廣 志

○ 入学の経緯と三農生活

 私は終戦直後、上北郡横浜町陸奥横浜で農家の三男として生まれ、家業から「家畜は家族の一員」を学んだ。

 幼いころ大切に飼っていた母牛が急病になり、治癒の見込みなく"切迫と殺"され、業者が食用として処理場に運んで行った。そのとき、哀れみと悔しさを感じたことが、人生の転機となりました。

 高校進学は両親から「将来のことを考えれば勉強が必要、経済的に苦しいが高校まで行け」と言われ決断。通学は無理で寮生活(桜風寮)となった。

 3年間の母校畜舎のアルバイト(搾乳・加工等)で、勤労と畜産を学んだ。朝夕の作業は辛かったが、日当35円は授業料と多少の小遣いも確保でき助かった。寮生活では、パン工場に日参し、くずパン(今日の消費期限切れや非売品)で空腹をしのいだ。このような苦労の連続でしたが、昭和37年3月に三農を卒業した。

○ 大学進学と学生時代

担任から、東京の獣医大学への推薦入学をアドバイスされ、家族の支援も不可能と

思ったが、両親と兄に直訴。結果は"相続放棄、学費の半分は自分で稼ぐ"など、厳しい条件ながら承諾を得た。入学後は夢中でがんばったが、学業と生活面で試練が待っていた。

 授業は語学で苦労し、生活では1年目で寮の全焼事故に遭遇、専門書・卒業記念アルバムを含め全て消失。かろうじて最短で卒業・国家試験に合格、獣医師の免許を取得することが出来た。

○ 公務員獣医師の任務

 神奈川県庁に就職したが、家畜の命を助ける獣医でなく、安全の付加価値をつける公衆衛生獣医となり、後悔しつつも天職と考え勤務した。

○ 安全・安心への挑戦

 食の安全確保は赴任以来の使命であり、生産者と消費者間の「食の安全・安心」、特に食肉衛生検査の任務を担当した。

○ 一切れより安全なお肉

昭和41年頃は、安全よりむしろ食料確保が優先さる時代だった。その後経済成長

期に入り、食文化の変遷と肉食の進展に伴い、家畜飼養形態が激変した。多頭飼育・密飼いの弊害、動物用医薬品・農薬等の残留、O157感染症、海外伝染病の進入、人獣共通感染症等を経験した。平成13年牛伝達性海綿状脳症(BSE*当初は狂牛病)の国内発生に至り、牛肉が一口も食べられない日々を迎えた。

○全頭検査導入

 この時期、日本は世界に例を見ない"牛の全頭検査"の導入に踏み切り、食肉衛生検査及びと畜場に厳しいBSE対策が課せられた。列記すれば次のとおり。①全頭数検査体制確立、②生体検査強化・個体識別対策、③SRM(特定危険部位)除去・保管・焼却等対策、④安全な、と畜・解体方法の開発・導入、⑤感染牛発生時対策、⑥廃棄物レンダリング対策(非飼・肥料化等)、⑦O157等、食肉処理の微生物制御対策、⑧高齢廃用牛処理対策、⑨消費者・業界への安全証明・マスコミ対策、⑩関係機関等連携強化

○ 我が人生を掛けた戦い

県の地方の一所属長であったが、全国食肉衛生検査所協議会の会長職の立場から、

厚生労働省等と激論の末、国の全面的支援の下、発生から1カ月で「BSE全頭検査」と安全処理体制を構築し、全国一斉に開始できた。

 危機管理の欠如から発生した最大の食品事故であるが、我が人生無二の戦いであり、全国の関係者、消費者である国民の賛同が得られ、今日の「安全な国産牛肉供給と消費ルール」、即ち「農場から食卓まで」・「From Farm to Table」が確立されつつあり、まさに感無量である。

○ 食の安全・安心と信頼

BSEの発生を機に、国民の健康確保を命題に食品安全基本法の制定をはじめ、各種の法整備がなされたが、近年になって産地偽装、期限や表示の改ざん、有害物質残留等、食の安全や消費者の信頼を裏切る事案が続発し残念である。

世界的食糧危機と輸入依存のわが国で、農業政策見直しと自給率向上の一歩を踏み出した今日、まさに母校三農高の教育と、卒業生の活躍が期待される日が到来したと思っている。

○ 人生・夢叶う

 己の未熟に気づき、公務の合間に大学院学外研究員として研鑽した。「現場は宝なり」

の想いと研究材料に恵まれ、昭和57年、獣医学博士の学位を授与され、亡き母の墓前に報告でき、唯一の親孝行が叶えられた。なお、学位の取得は、大先輩佐川孟三医学博士の存在が支えになった。

 終わりに、十和田出身・竹内重正氏の配慮で、北里大学会場にて、「BSE検査と発生時の対応」と題し、関係者への特別講演をさせて頂き、故郷へのささやかな恩返しができ深謝すると共に、同窓生各位のご発展をお祈りする。(編集部注*S36年度畜産科卒、三農時代、生徒会長として名を馳せた。)

09年02月28日 |〔 会報 〕

追憶 私の歩んだ道

第3回
根 岸  勲

 昭和35年春、新入生を迎え私達も2年生となり、高校生として少しは心にゆとりも出てきた。いろいろと新入生に指導する立場になり、そんな自分が嬉しく、得意顔になって何かにつけ教えたものだ。友達も多くなり、部活に農業クラブ活動、そして遊びにと時間を惜しまず精一杯動き回った。しかし、貧乏生活は相変わらずで、休みにはアルバイトが私を待っていた。

 農業クラブでは、先輩の奨めで農事弁論に挑戦することになり、私は農家出身でありながら米がとれない開墾地の実情を訴えることとした。

 この弁論と前後して、兄幸雄が地域の団長となり、県庁に陳情を続け、やっと昭和38年に開田工事が始まり、翌年には待ちに待った黄金色の稲穂が頭をたれ、村人全員が喜びに沸き立った。しかし、働き続けた母は収穫直前、一番米を口にすることなく他界した。義姉りさ(長男の嫁)は「初めての米を義母に食べさせたかった」と後々までも口癖のようにとなえていた。

 話が横道にそれたが、私は弁論という慣れないことに挑戦したが、文章を書くことが苦手で表現力にも乏しく、県大会までは出場したがそれ以上は進めなかった。でも大勢の前で発表できたことが、"自信"という大きな収穫を得、後の生き方に大いに役立ったと思っている。

 苦手の文章力を高めたいと苦慮していたこの時期、農業クラブの機関紙に掲載されたすばらしい投稿に目を奪われた。それは北海道のある高校のサチコさんという生徒の書いたものでした。とっぴではあったが文通を申込みたくなり、住所が分からないので学校に直接手紙を送った。このような失礼なことでは返事は貰えないものとあきらめていたが早速返信が届いた。その文面のうまさと達筆に脱帽、何と文通を快く受ける旨の返書があった。嬉しくて自分を制御するのがやっとの有様であった。さて、困ったぞ!直ちに文章の綴り方、ペン習字の練習を真剣に取り組みながら文通を続けた。いわば彼女は私の恩師のような存在でした。余談だが、文通はお互いの家族の理解の下に、細く長く現在も続いており、先方は生涯にわたり尊敬し得るご夫婦と思っている。

 2年生の2学期には将来の進路を決めなければならず、教師を目指していた私は大学進学希望でした。しかし実家のことを考えればこれ以上の負担はかけられず、結局就職を選択した。それ以降投げやりな気分を抑えきれず、勉学の気力も失せ手の付けられないほど荒れた。今考えると恥ずかしい限りだが、担任の先生に随分迷惑をかけた。

 そんなとき畜産科のヒロシと知り合った。キリリとした美少年で、しっかりした話が出来る人で、なぜか馬が合いそれ以降熱く青春を語り、残り少ない高校生活に悔いの無いようお互い頑張ろうと励まされ、私はハッと目が覚まされました。私の立ち直りは彼に負うところが大きく、クラスが違ったが無二の親友として、現在も家族ぐるみの付き合いが続いている。

 夏休みが終ると、生徒会、農業クラブ、部活と3年生が引退を迎える。こんなときヒロシが生徒会長に立候補すると語り、私は応援の約束を取り交わし票集めに奔走した。その結果みごと当選を果たした。一方私は農業クラブの書記に当選、お互い喜び健闘を誓った。

 昭和36年最上級生になり、担任は竹林理先生でしたが、私は早速呼ばれ2年生のときの

生活態度を厳しく叱られた。そして3年生の条件はクラスの上位に入ることで、「君にはその実力がある」とおだてられ、私はその気になって頑張り、約束を無にしなかったと自負している。先生の巧みな誘導の手法、うまさを教えていただいたことが、後の社会生活にどんなにか役立ったことか、感謝の念でいっぱいである。

 6月早々に三本木営林署(林野庁所管)に就職が内定、病床の父が自分の職場の後を継いだと思ったようで、たいそう喜んでくれた。夏休みの1カ月間営林署に実習することになり、国立公園である十和田湖近くの山林の測量に従事した。防災工事設計のための大事な仕事であったが、最初は張り切り真剣に取り組んだものの、連日アブやハチに追いかけられ、おまけに指導者が昼から酒を飲んでいるさまを目の当たりにし、嫌気も手伝い「二度とない青春を、こんな山の中で終らさせてたまるものか」との思いが胸をよぎり始めた。(つづく)

09年02月01日 |〔 会報 〕

三農生の頃

第10回
佐 川 孟 三

 2月の東京十和田会総会で、十和田商工会議所から副会長の岩間恵美郎さんがお見えになり、初対面の挨拶をして思い出した。恵美郎さん親戚の岩間岩男さんが、小生の三小、三農の1年先輩であった。十和田で活躍している名士が小生の知人や友人の子息か孫が多いので、会った方と同じ姓の知っている方の関係を尋ねることにしている。現在の石川正憲会頭は三農の校医であった石川清先生の次男である正之君の御子息であるという。その正之君は小生の三小の同級生で、急に距離感が縮まり話が弾むのが常である。

さて、前出の岩間岩男さんとアルゼンチンのかかわりを少し触れてみたい。高地抱一郎先生(S15 退職)が南米アルゼンチンでの牧場の体験を話してくれるので、当時の三農生はアルゼンチンに関心をもったものである。昭和12年3月、2人の卒業生がアルゼンチンの首都ブエノスアレスに就職することになった。農業科卒の杉山義喜先輩と農蚕科卒の岩間岩男先輩で、向こうでは花卉栽培に従事するらしいと聞いた。

 昭和初期の不況時に若者の海外雄飛が叫ばれ、特に昭和7年満州国が建国されてから

三農では卒業生の1割は満州に就職したが、日本から見れば最も遠い地球の裏側のアルゼンチンに就職するなどは驚天地動の出来事であった。翌昭和13年には小生の三小、三農農業科の同級生であった川越銀之助君と、昭和14年小生と同時に卒業した農業科の荒谷哲夫君の二人がアルゼンチンに行った。特に新谷君は剣道部で大将を、小生は先鋒で試合に臨んだもので、両人とも親しい友人であったので記憶が鮮明である。昭和15年以降も調査しようとしたが小生私事多忙となり時間を取れず、次回に報告したい。岩間社長の話では岩間先輩は健在らしいが90歳になるはずである。三小、三農と1年上級生との接触が密であったため、懐かしさが蘇り会いたくなった。

 高地先生のお話の中に、牧場で牛が死ぬと、皮は貴重なので剥いで天日で乾燥し、肉はコンドルの餌になると云っておられたが、肉の加工法が進歩しコンビーフにすることで、肉が100%利用できるようになり、人工革の進歩もてつだい肉と皮の価値が逆転した。

 60年ほど前、敗戦直後日本は食糧難で苦しんでいる時代に、麻布獣医の先輩の竹岸氏が、当時の日本から見れば信じ難い安い値段の馬肉を冷凍肉専用の大型貨物物船でアルゼンチンより運び、屠場で除け物みたいな豚の脂身と混合しソーセージやプレスハムに加工して大儲けし、株式一部上場の会社になった、貨物船の船名はプリマ丸で、日本ハム、伊藤ハムに次ぐ会社「プリマハム」誕生の一席である。

 高地先生の言によると、コロンブスのアメリカ発見で、南北アメリカからヨーロッパに数多くの食品が持ち込まれたことにより食生活が全く変わり、逐次アジアの植民地を経て日本にも伝わったが、その数の多いことには驚く。馬鈴薯はオランダ領ジャワからでジャガイモとなり、南瓜はフランス領カンボジアから伝わりカボチャになった。その他唐芥子、落花生、玉蜀黍、甘藷、七面鳥、実験動物のモルモット等と記憶しているが、はっきりしないところもある。また、現在は飛行機で短時間に世界中簡単に行けるが、当時船で太平洋を渡りパナマ運河を通り大西洋に抜けたが、方角からは西から東に進むが、運河のある地点で航行中日本の方角に向く瞬間があり、故国が懐かしく両手を合わせて拝んだ話を聞いたが、本当にそういう地点があるのか長年疑問に思っていたので、先ほどの作物の件と一緒に母校の先生に調べてもらい教えをいただき、小生の生きている間に自分の中で決着をつけたいと思っている。

 昭和16年12月8日、日本が米英と戦争を始めたが、米国の勢力圏であった中南米の諸国は、米国の圧力によって次々に国交を断絶したが、親日的であったアルゼンチンだけは、日本の劣勢が顕著になっても圧力に屈せず、日本の降伏が近くなった頃ようやく断絶に踏み切ったが、当時のアルゼンチンの好意を小生の年代の者は忘れないと思うのである。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究所員、医学博士)

09年01月31日 |〔 会報 〕

三農生受賞

三農生受賞おめでとう!


○ 毎日農業記録賞

08年毎日農業記録賞(毎日新聞社主催)の高校生部門において、三農の蔵川千恵さんの論文「農業高校にはまった私」が優秀賞に輝きました。蔵川さんは三農の植物科学科に進み「新しい室内植物の開発」の研究に取り組みその過程をまとめたもの。蔵川さんたちは一昨年、物理学者朝永振一郎博士の功績を讃えて創設された「朝永振一郎記念第2回科学の芽賞」高校生部門で最高賞に輝いたチームの一員。

農業を知らなかった蔵川さんが「農業高校にはまった私」に至るプロセスの素晴らしさがみごとで、作品の最後に「人々は植物から元気をもらう、そして街中が笑顔であふれる。いつかそんな日が来ることを夢見て、私は今日も研究室に向かいます。」と結んでいる。なお、賞状と盾が12月8日贈られた。


○ 農業機械鑑定で最優秀賞

日本農業クラブ全国大会(日本学校農業クラブ連盟など主催)は、昨年10月23日、佐賀市で行われた。高校生が専門技術を競ったり意見発表する全国大会において、三農深沢侑希さんが農業鑑定競技会(農業機械部門)の最優秀賞に輝きました。

本当におめでとう!私たち同窓生が母校の生徒の活躍を見守り、そして応援しています。

08年12月31日 |〔 会報 〕

36回総会報告

三農東京同窓会36回総会報告


 第36回三農東京同窓会総会・懇親会が平成20年9月14日東京、アルカディア市ヶ谷にて開催されました。

新卒者歓迎会

総会に先立ち、新卒者の歓迎会が行われ、参加された新卒者は次の5名(前年は13名)。山本紘子(動物科学科)、内田和美(経済科)、佐々木ひとみ(園芸科)、立花由貴子(園芸科)、浜形ゆりな(生活科学科)。升舘理事長からは東京同窓会の説明がなされ、次いで池畑守会長から歓迎の挨拶がありました。挨拶の中で「新卒者の皆さん、よく参加して下さいました。心から歓迎します。人生にはいろいろなことが起こるものです。成功よりむしろ失敗の方が多いと思います。そのときは挫けず前向きに進むことが大事だと思う。私は例ですが、ブラジルへ移民したくて三農畜産科に入りましたが誰も行く人がおらず、学校の選択が間違ったかなと思いました。集団就職で東京に出たものの、会社の営業に回され言葉で苦労し、これではいけないと気がつき、大学に進み税理士の資格をとり、今その方の仕事をやっております。皆様も困ったときには孤立しないで、私たちの仲間がいっぱいいるので相談してください。今日はゆっくりお過ごし下さい。」と述べました。 締めの挨拶は五十嵐八代榮副会長が「長い人生スタートですが、ご両親のことを胸に思い起こしながら、希望をもって勉強にそして、お仕事にばんばっていただきたいと思います。何か困ったことがありましたら、同窓会の私たちに声をかけて下さい。」と力強く話されました。また、5名の方々には会から、映画「三本木農業高校、馬術部」の入場券を2枚ずつ贈呈しました。なお、5名の進路内訳は、大学生(千葉大)1名、看護師修行2名、会社員2名となっております。

  総 会

 下山光孝副会長の開会の辞に続き、物故者への黙祷を捧げ、三農校歌を斉唱しました。

池畑会長からは「我々役員も老齢化して錆付いてまいりましたが、若い人たちにうまくタッチするよう心がけながらやって行きたい。」と挨拶があり議事に入りました。

 19年度事業・決算が升舘広美理事長から、会計監査結果は中野渡義雄理事からそれぞれ報告があり、引き続き20年度事業計画・予算が提案、満場一致で了承され、根岸勲副会長の閉会の辞で総会を終えました。

   懇親会、あいさつ、祝辞

池畑守会長は挨拶で「母校創立百十周年記念行事がこの秋開催されますが、できるだけ参加賜りますようお願いします。6月に秋葉原で悲しい事件が起こり、犯人は青森の人ということで驚きました。やはり田舎から出てきて都会の砂漠のなかで孤立感を深めている人が、かなりいるのではないか。私は郷土の会とか同窓会などの会合に参加して、議論したりケンカをしたり、また、励ましあったりすることで仲間意識が生まれると思います。10月4日からいよいよ映画「三本木農業高校、馬術部」が上映されます。私は試写会を見ましたが、涙あり笑いありのすばらしい作品ですが、なんといってもあの映画は"人生そのもの"を語っており、感動することにより孤独感もなくなってくるし、あのような悲惨な事件を起こす発想にならないと思う。

 今日は限られた時間しかないのですが、十和田市出身の近江綾さんのアトラクションも用意してありますので、楽しくご歓談くださるようお願いします。」と述べました。

 つづいて本部同窓会長佐々木敏雄氏から「三農が現在地(高清水)に、三本木高校が元三農敷地に移転して41年がたちました。今や移転の事実を知らない卒業生が出てきました。

当時、移転跡地に記念碑をたてる話がありましたが、沙汰止みになりました。今となっては記念碑を建てた方が、歴史的価値があったのでは、と思えてなりません。それはさておき、三農も近時いろいろと話題性があり目を見張るものがあります。詳しく校長からお話があると思うので省略します。本日はおめでとう。」とのご祝辞がありました。

 遠藤智久学校長は挨拶に立ち「この4月からお世話になっている遠藤です。同窓会の皆様から日ごろから、たくさんのご協力をいただいており、心から感謝申し上げたいと思います。私は平成11年から16年まで三農に勤務いましたが、当時と比べ施設関係では耐震工事が進んでおり、全体がきれいに整備されました。組織では、学科の編成が行われ6学科で1クラス35名、全体の生徒数が616名と、ひところに比べ少なくなっております。

運動部の活動ですが、高校総体ではアーチェリー男女、相撲が団体優勝。東北大会では男子団体優勝、個人では男女優勝、相撲は東北大会で準優勝と頑張りました。青森県の場合私学が非常に強い中で、よくもここまでやってくれました。インターハイでは相撲が3位、アーチェリーが男女とも決勝トーナメント進出、馬術は団体3位、個人3位となっています。三農馬術部の映画が上映される直前であり、まずまずの成績を残すことが出来、ほっとしているところです。

 農業クラブ活動では、東北大会が終わったばかりですが、9部門うち3部門で最優秀、11月に佐賀で全国大会が開催されます。今年は大きな行事が二つありまして、7月に本校で、秋篠宮両殿下をお迎えして馬術大会が開催され無事予定通り終了しました。10月25日に本校創立百十周年記念行事が開催されます。同窓生の皆様からたくさんのご寄付をいただき、本当にありがとうございました。

 馬術部の映画が、いよいよ10月4日からロードショーに入りますが、全国校長会でも話題になり、全校観覧の学校が増えております。27日に読売新聞が取材に入り、JRも特別企画で学校見学などを予定しております。あの映画は人以外のところからの目線を向けているというか、自然との共生という新しい生き方を考えさせる映画ではないかと思います。皆様、ぜひ見に行ってください。」と近況を報告されました。

  招待者ご紹介

 三農からは佐々木同窓会長、遠藤校長のほか円子昭浩先生、坪宏至先生、中村巨樹先生、

が、また、青森県人会、東京十和田会、青森県高等学校同窓会東京支部関係者など45名が

参加してくれました。なお、東京同窓会会員440名のうち出席者は60名で、若干少なめでした。招待者を代表して、青森県人会副会長からご祝辞があり、昨年11月品川プリンスホテルで行われました"青森人の祭典"60周年に三農同窓会から多数の参加に対しての感謝と、青森県人会への勧誘の言葉がありました。

   乾 杯

 88歳になられた佐川孟三さが立ち「昭和3年卒の加藤さんが出席されなかったので、若輩者の私が代わって乾杯の音頭をとらせていただきます。19世紀に創立し21世紀に三農が映画界に進出するとは夢にも思わなかった。健康で長生きしているともっと良いことがあると思います。かんぱーい!」と力強い発声でした。佐川さんは役員会には必ず参加され進んで仕事をしてくれ、あの重い缶ビールのダンボールケースを担ぎ、差し入れてくれます。ご本人は「自分の体力を試しているのだ」とおっしゃいます。役員一同本当に頭が下がります。

   歓談・アトラクション

 十和田市藤島字小山出身の近江綾こと小山石富美子さんの歌謡ショーが始まりました。日本エンカフオンレコード社に移り、活躍が目立ってきました。5月に出された新曲、「奥入瀬エレジー」ではじまり、そして懐かしい名曲を次々と歌い、最後に「三つ葉葵の渡り鳥」で締めていただきました。今後もがんばってください。

   ビンゴゲームと物産販売

 恒例のビンゴゲームは、全員に行き渡るように賞品を準備しました。名物となりつつある三農産、農作物販売です。今回は、卵、ニンニク、ジャガイモ等の詰め合わせを格安でご協力をいただき完売、ありがとうございました。

 今回の同窓会では、新人の方々が先輩にお酒を注ぎながら、積極的に話しかけていたことが印象にのこりました。未来には長い道のりがあります。同窓会をよりどころとして歩んでいただきたい。

 閉会の挨拶は五十嵐八代榮さんが「母校の創立110周年記念行事に、役員を中心に参加しますが、伝統ある三農同窓生として自信を持ち、これからもお互いに協力しながら進もう。」との力強いことばと、万歳三唱で締めくくりました。なお、希望者による二次会も開催され、映画「三本木農業高校馬術部」の成功を祈念し散会しました。

08年09月30日 |〔 会報 〕

ベトナム報告4年目

シンチャオー(こんにちは)からダンビィア(さよなら)ベトナム

北里研究所   馬場 建一

今年は、ベトナム国と日本国との麻疹(はしか)ワクチン製造技術移転プロジェクトも、最後の年(4年目)となりました。振り返ってみると、1年目は施設及び機材の立ち上げを最優先課題として取り組み、初期の目的を遅滞無く達成でき、2年目は北里の原液(麻疹)ウイルスを使用して最終製品製造工程及びその品質管理が出来ることを目指しました。3年目は指導の成果としてベトナムが実施計画書、標準操作手順書(SOP)、GMP手順書等の各種書類に関してレビューをおこない、最終的には英語版を作成しました。また、各技術移転項目については、実績管理表を作成してモニタリングを行い、一定のレベルに達した認定書を発行し、その指導項目に対する技術移転の完了としました。この間、JICA(国際協力機構)よりベトナム国麻疹ワクチン製造技術移転プロジェクトに係る成果品の検査結果及び実績評価結果について、2年連続で「A」もらいました。日本では類がないそうです。とても名誉です。また、WHO-GMPに適合した麻疹ワクチンを製造し750万ドーズ製造できる能力が出来、国内で臨床試験を開始し、3年目を完了しました。

今年(4年目)は、ベトナム自身で原液から製品、販売まですべてを行い第2回目の臨床試験を予定し、本年10月を目標に販売ライセンスを取得する予定にしています。

私は、5月の連休にベトナムに行き、品質管理の最終チェック、最終製品の管理、保存試験、被臨床試験及び臨床試験に用いる製品の参考品管理と運用を教育、実施しました。その他に、ゴミの分別、排水処理、防虫及び動物舎の運用を行ってきました。

*閑話休題*  日本からハノイ国際空港に着いて、税関でパスポートを提示しようとしたら、現地のカウンタースタッフと税関係が居てパスポートを取り上げ「ついて来い」と云う。みんなにジロジロ見られきまりが悪い。"早く行っても荷物はどうするの"と云ったら笑ってごまかされた。彼等にとっては、私に対する最大のおもてなしだろうと思い、有り難うとお礼を言いました。空港の出口で迎えの車に乗ってハノイ市内のホテルに向かったが、日本との温度差18℃であった。当然その夜は眠られませんでした。

 去年の12月24日のクリスマス・イブの夜の事、ベトナムのサッカーチームが勝った夜と重なって、ハノイ市内のメインストリートは、群衆で動けないほどでした。運良く私はガイドの女性とたまたま一緒で、はぐれないようにと私をホテルまで2時間歩いて送ってくれました。私は、年甲斐もなくドキドキし、とてもいい感じで夢の世界とはこのことかと思い、おかげでその夜はなかなか眠つかれませんでした。

 最後に、こんな自分に名誉な機会があったのも、あらためて三農あってのことと心より感謝の気持ちで一杯です。

(昭和43年度畜産科卒業、現在同所 品質部門、部門長補佐)

08年09月19日 |〔 会報 〕

青森人の祭典

東京青森県人創立60周年記念『青森人の祭典』が、昨年11月10日グランドプリンスホテル新高輪にて開催され、三農東京同窓会から会長以下15名が参加しました。

式典のほか、歌手などのアトラクションがあり、目出度くも賑やかな祭典になりました。

07年11月10日 |〔 会報 〕

各高校同窓会に出席

東京青森県高校同窓会連合会加盟の各高校同窓会東京支部の
同窓会総会それぞれに役員数名が参加しました。

5月24日、八戸工大二校同窓会(以下、高校名のみ)、青森北高校、
5月31日、弘前工業高校、
6月14日、鯵ヶ沢高校、野辺地高校、
6月15日、八戸工業高校、28日、東奥義塾、
6月29日、五所川原工業高校、
7月5日、五戸高校、弘前南高校、
7月6日、三本木高校、
9月20日、青森商業高校、
10月18日、田名部高校

07年10月18日 |〔 会報 〕

バーベーキュー祭

第7回青森県高校同窓会連合会では、恒例のバーベーキュー祭りを、10月7日国立昭和の森公園にて開催しました。

三農東京同窓会からは15名参加し、築地直送のマグロ、イカによる刺身、即席塩辛は、下山光孝、木村弘子さん等による料理により好評を博した。

ことしは、ジャガイモをボールに見立てたパターゴルフを行い、秋の一日を楽しく各同窓会支部同士の友好に努めました。

07年10月07日 |〔 会報 〕

ボウリング大会

昨年7月29日、青森県在京高窓連主催のボウリング大会が新宿ミラノ・ボウルで開催。

三農同窓会から千葉、升舘、小原、中野渡義雄、五十嵐八代栄、三条さんが参加、成績はまあまあであった。希望者は事務局までご連絡を。

07年07月29日 |〔 会報 〕

私達には仲間がいる

三農東京同窓会会長  池 畑  守

今年6月8日、ご存知のとおり東京秋葉原で悲しい事件が起きました。しかも、犯人が青森県内の高校卒業生と聞き二度びっくりしました。彼には仲間もない孤独な生活をしていたのではないかと思う。私たちも田舎から上京しながらも、努力して何とか社会に貢献しています。このような事件を聞くと同窓会の存在が大切であると思います。同郷同志だと言葉の不安も消え、お互い仲間意識が生まれ心が和み、明日に向かって進む勇気がわいてきます。私たちも同窓の仲間を増やし、コミュニケーションをとることにより、このような事件がなくなるよう努力をしなければと考えております。

母校は百十周年を迎え、10月には記念式典が母校で挙行されますが、同窓会の皆様からは多額のご寄付を頂戴し、心より御礼申し上げます。この百十周年に華を添える母校での実話を元に「三本木農業高校・馬術部」という映画が十和田市で試写会があったそうで、十和田地方の四季が美しく、涙あり笑いがある、馬と女子高生のふれあいが感動的に描かれていると聞く。今年の春退官された前校長の斗沢先生をはじめ、生徒たちもエキストラとして出演されているようです。東京同窓会総会の頃には、東京でも上映されていると思います。皆さんハンカチを用意して、自分の人生と重ね合わせながら鑑賞していただければと存じます。

斗沢栄一前校長には3月をもって退官されましたが、生徒たちの指導はもとより三農の評価を高めた功績は大であり、東京三農同窓会として衷心より厚く御礼申し上げます。

昨年の後半から、米国のサブプライムローンの問題が発生し、ガソリンを中心に生活物資の高騰、円高も進行し景気は下降しており回復の兆しが見えません。楽観できない社会情勢でありますが、来る9月14日の同窓会総会に出席いただき、信頼しあい元気を出し、ひと時を過ごそうではありませんか。(S35年度畜産科卒業・税理士)

07年07月01日 |〔 会報 〕

母校三農は賑々しい

三農同窓会長  佐々木敏雄

先日、新任職員の歓迎会があり出席した。定年退職の斗沢栄一校長の後任に八戸聾盲学校長の遠藤智久氏が第二十九代三農校長として就任した。斗沢一雄教頭は名久井農業高校校長に昇格転勤し、後任に名久井農業高校教頭の中村充氏が、事務長に七戸高校事務長竹ケ原一雄氏が着任した。校長、教頭、事務長の三役が揃って異動したのは近年に無いことであるが、三氏とも本校勤務の経験者であり、極めて心強い。遠藤校長は新郷村出身で東京教育大学農学部を卒業している。それに我々の恩師であった八島康明先生(英語)の長女のご主人であり何かと因縁と親しみを感ずる。

最近の三農は賑々しい。優勝旗は11本獲得した運動部の活動をはじめ、全国大会最優秀賞獲得の学校農業クラブ活動、上映が近い映画「三本木農業高校・馬術部」、秋篠宮様ご臨席の全国高校馬術選手権大会、そして各種コンテストへの続々入賞と、毎週のように新聞に掲載され、テレビで放映されて話題となっている。長い三農の歴史で現在が最も輝いているといっても過言ではない。これだけ全校生徒が多方面にわたって成果をあげ得るのは校長を先頭に全職員の毎日の指導の積み重ねの結果であろうと敬意を表する。

このように素晴らしい成果を挙げつつある母校を同窓生として誇りに思い、これが永遠に続くことを願い、少しでも後押しが出来ればとの心情から百十周年記念事業を計画した。

事業の内容は、20年以上も休部をしていた吹奏楽部が熱心な指導者が来て、残っていた楽器を修理しながら、10名足らずで卒業式や入学式で結構よい音を出しながら頑張っている。この熱心な指導を無駄にしないよう最低の楽器を補充してやりたいと計画した。

同時に「三本木秋まつり」はご存知のように近年山車が少なくなり太鼓が主流となってきた。三農も盛り上げに協力、二年生を中心に全員参加をしているが和太鼓が無いので、三沢市から借りて練習、出演している。それに現在、全国的に農業高校は和太鼓を導入し、高校文化連盟大会や学校行事で賑やかに演出している。徐々に毎年の卒業記念品として購入しているが、これも紅白の幕等になったりして、なかなか進まない実情である。

百周年記念事業が終わって間もないのに、また寄付かという感もあるが、このような現状に最低限でも応えてやりたいとの思いからの事業である。母校三農のますます隆盛を祈念して快いご協力を期待いたします。


07年07月01日 |〔 会報 〕

私の歩んだ道〔第2回〕

根 岸   勲

母の心強い一言で、昭和34年三本木農業高校に合格、入学の準備をするわけですが、学生服、カバン、靴、教科書等、母がどのようにして工面したのか必要なものは全て揃えてくれた。通学は遠く、金のかかる下宿はできず二男の寿雄夫婦のアパートに同居させてもらうことになり、学費支払いだけで精一杯なので、兄姉達も応援するよう父母から話が出され入学に備えた。それぞれ苦しい乍らも応援してくれる兄姉達に感謝し、四月上旬我が家を後にした。

入学式を終え晴れて高校生活に入るのだが、右も左もわからず、昼休み時に行われる応援歌の練習では、大声で怒鳴りまくる先輩達がただただ恐ろしく、懸命に覚えたものです。

この年四月十日に皇太子(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)との結婚の儀が行われ日本列島がお祝いで沸きかえりました。お二人はテニスのご縁で結ばれたとのことで、当時大ブームで部活の新入生勧誘でもPRされ人気がありました。

この頃から景気も上向き、家電、とりわけ白黒テレビが一般家庭にも入り始めましたが、

貧乏な我が家ではまったく無縁の存在、観覧はもっぱら電気屋の店頭でお世話になりました。入学してひと月もすると学校の様子も分かり始め、部活では柔道部に入りましたが、体が小いかったので、大きな人達を相手に練習もきつく自信をもてなく、いつも軽く投げ飛ばされておりました。そんなとき部長のゴサク先輩から「立ち技より寝技を覚えろ」と助言され、その後少しは通用するようになり練習も楽しさに変わっていきました。素人である新入部員の私達には、時には厳しいが優しく指導してくれる部長でした。

農業科に入った私は、中学時代からの先輩の指導を受け水稲の出来ない開拓地のため、陸稲の研究をし、バラ蒔きせず水田のように苗を一定の間隔をもって植えてみました。除草も楽で立派に分ケツし丈夫に育つことが証明されたので、翌年春に早速実家と開拓の仲間の協力を得て作付けしました。味は別として確実な増収の成果と、何よりも白いご飯が食べられたと喜ばれました。

話は前後しましたが、私は農業クラブ(FFJ)に興味を持ち、諸先生、先輩達の教えのもとに、開墾地の生活を少しでも楽に出来ないかと、いろいろな行事や研究など積極的に参加しました。

入学二か月ほど経ったある日、二男夫婦が仕事の関係で北海道に移ることになり、残された私はアパート代も払えるわけもなく、相坂の知り合いの部屋を無償で借りることになり、その日から未経験の自炊生活をすることになりました。急きょ鍋、七輪、食器を用意しなれない食事を作るのですが、当然、栄養のバランスもとれず惨めな日々を送ったものでした。悪いことは続くもので、父が入院となり母が付き添わなければならず、学費どころではなくなり、長男幸雄夫婦達の苦労を考えれば中退もやむなしの状態でした。だが、長男は「学費は何とかするから最後まで勉学をやりとげろ」叱咤激励され難関を乗り切るべく田畑の草取り等のアルバイトをしましたが、疲れる割には日当も安いものでした。

父が市立病院に入院したので学校の帰りに時々見舞いにいきましたが、そこで何と幼なじみのケンサクが入院しており、七年ぶりの再会でした。彼は背も高く立派に成長しておりましたが、結核に侵されており闘病むなしく十五年の短い生涯を閉じました。幼い頃の思い出話に花を咲かせ励まし続けたのですが、それもかなわず永久の別れとなり、友を亡くした悲しい思いが長く尾を引きました。
 入学も半年ぐらいになると友達も多くなり、特に同じ地区から通学するヒロシやトキオ・ジュンイチとは気が合いお互いによく学び?よく遊びました。農業クラブ活動に共鳴し研究発表や競技大会に参加していくことになるのです。

さて、自炊生活では実家に米がないため、長女ノブの嫁ぎ先、五戸町にはよく足を運び、米やお小遣いを頂き助けてもらい、特に義兄には世話になり感謝感謝です。三男光雄・二女恭子にも応援してもらい、何とか高校生活を続けられました。父の入院生活は長引き貧乏生活も本当にどん底だったと思われますが、今は懐かしい思い出になりました。

一年生の冬、小稲の叔母の物置小屋を借り三度目の引越しをしました。大工だった二男が住める程度に改造し畳はボロボロでしたが、家賃無しなので仕方がありません。ただ電気代として月一回畑仕事を手伝うことが条件でした。コタツも使うことが出来ず、布団に身を包み暖をとり、愛用のリンゴ箱を机にしておりました。当然恥ずかしくて友達も連れて来られませんでした。そんな訳で学費も二~三か月滞納気味になり、事務職員から何度も催促される始末、アルバイトを真剣に探さないと退学も現実となりかねません。ある日商店街で"求むアルバイト"の文字を目にし、飛び込みましたら家具店でした。店主に会い、今までのこと、これからのことを一気にお話しました。じっと聞いていた店主は元教師だったそうで理解していただき、毎週日曜日に働くことにさせてもらいました。昼食・夜食付きだったので大助かりでした。婚礼があれば家具を配達した際、ご祝儀だといってお客様からお小遣いを頂き、学費支払いに回すことができました。家具の傷が付いた品は廃棄処分になるので、店主に頼み無料で分けてもらい、机、タンス、カーペット、布団等私にとっては部屋が新しくなった気分でした。店主との約束は、アルバイトと学業の両立が条件でしたので、以後卒業までここでお世話になり頑張ることができ、感謝の気持ちで一杯です。

農業クラブの校内大会があり、今まで研究した成果発表や競技が行われ、優勝すると県大会・東北大会と進むことが出来ますが、私たちの時代はせいぜい東北大会がやっとでした。(現在、後輩達は全国大会の常連で最優秀賞に輝き全国に三農の名を残しているが・・。)

私も研究成果を発表しましたが、力不足で結果は思うようにいきませんでした。ただ、多くの生徒達の前で発表するそのことが、私に後々の人生に大きく役立つ貴重な体験であったと確信しております。

三学期に入ると、生徒会や農業クラブ役員の選挙が行われましたが、先輩に担ぎ出され農業クラブ役員に立候補、二年生を相手に戦うことになり各教室を演説のため巡ったものでした。頭を下げること・約束・丁寧に会話することなど、このときに覚えた気がします。苦戦しましたが先輩をやぶり当選し、以降農業クラブ活動を強めて行くことになるのです。

当時農業クラブの顧問は三浦浄先生、会長は種市一正先輩(現三沢市長)でした。

こうして何もかも始めての経験した新入生時代も、あっという間に過ぎて行きました。一年生の担任は三浦寿太郎先生で、教師になったばかりで初々しく、特に女生徒に人気があったように思っております。先生は二年間担任となり兄貴のような存在で、誰からも好かれ私にとりましても忘れられない恩師でした。〔昭和36年度の農業科卒業・元播磨商事KK常務〕

07年07月01日 |〔 会報 〕

こんにちはベトナム〔第3回〕

北里研究所  馬場建一

早いもので、日本国とベトナム国の麻疹(はしか)ワクチン製造技術移転事業も、今年で3年目、来年で終了となります。私は今年がベトナムに行くのは最後の年になりました。

今年、私の目的は、検定業務の成果を出すことです。予定された技術移転はほぼ計画どおり遅滞することもなく終了しており、ベトナムのスタッフは今年に予定されている種ウイルスからの製造から、製品化に向けて準備を進めている。日本人専門家(北里研究所)からスタッフへの指導は着実に行われ、ベトナムのスタッフが習得した技術レベルはかなりのハイレベルである。こうした背景にはベトナム国と北里研究所との長年にわたる人間関係を通じて築かれたもので、現在のプロジェクトのベースとなっている。

しかし麻疹(measles Virus)は主要先進工業国ではすでに制圧され、輸入感染症として対策がとられている。ベトナム国は、平均寿命は67.8才で、妊婦死亡率は10万人中95人、5歳未満児死亡率は1000人中42人と非常に高い。ワクチン接種は行っているが、輸入ワクチンは高価なので、あまり出来ないのが実態でした。そこで自国で生産して一般国民に供給するための事業が、このプロジェクトでした。私としてもとても名誉な仕事であります。今年ベトナムに行くに当たって、三農魂で誠意をもってやり遂げる積りです。

前回も述べたように仕事をするためには、ベトナムのことを知ることが肝要と考え、いろんなことを学びました。まずコーヒーから。ベトナムではどこへ行ってもお茶を飲む店があります。私は一人でお店に行くのが快感です。はじめての店に入ると、なにも言葉もなく、ただジロジロと見られます。それが二、三回となると、笑顔で迎えてくれるようになりました。昔、初めてアメリカ人を見た時と同じような気がしてなりません。店によっては、いきなりベトナム語で話かけられ、日本語で返すと「エッ!ベトナム人でないの?」
と驚いていました。ベトナムでは人々は日常的にお茶を飲むようです。いくら飲んでも日本円で15円位。コーヒーは非常に高く百円から八百円もする。普通の店では百円のものしかない。私がベトナム語を使うとみんな寄ってきて一斉に笑う。これでこの店との人間関係ができたというもの。

次はカラオケ。日本人向けの店で、お酒とアオザイを着た娘がいます。片言の日本語と英語です。店によって千円から三千五百円位の店で、他の店には予算的に行けませんでした。最初はやはりジロジロ見られ無言でした。私は日本のチョコをボスにプレゼントしたが、次回からは別格の客になり、とても楽しくカラオケをしました。親しくなったのは経営者のお母さんでした。もちろん旦那さん付きです。

買い物はもっぱら国営デパートです。お金を換算しながら買い物し、休みの日はお惣菜売り場でベトナムの弁当を自分でトッピングして買い、ホテルで日本の醤油を使用して食べます。売り場の女性と会話しながらショッピングするのですが、変な日本人と思われているらしい。トッピングの都度みんな必ず集まって見ていて笑っている。きっと何かが違うだろう。

ビアホールに行ったとき、ドイツ系のホールでベトナム人が多いのにはびっくりしました。見ていると外国人はビールを、地元の人はウオッカを飲んでいて、よく全員起立して一気飲みしながら楽しくやっていました。

お寺を見学したとき、入り口で10人ほどが手に線香を持って襲うように迫ってきました。スタッフが大声で「カメラとバッグをしっかり持ってください」と叫ぶのでした。後で聞いたのですがよく掠め取られるそうです。次に来たのは地元の写真屋さんで、どこの国も同じか。一つ違うのは断っても断っても我々の後を車に乗るまでついてくる。まるでストーカーみたい。

ベトナムにはバイク・タクシーというものがある。私は乗る機会はなかったが、ある日本人がバイク・タクシーの運転手から片言の日本語で「お茶をご馳走するから、日本の話を聞かせてくれ」といい、しばらくしたら「次の店でもっとおいしいお茶を飲みながら、聞かせてくれ」さらに移動、もちろんお金はただ。その日本人は、なんと親切な運ちゃんだろうと思い運ちゃんに付き合う。夕闇が迫る頃、今度は「おいしいウナギの店に案内しよう」とフルコースのウナギ料理。それは何と蛇料理のフルコースだったそうだが、お会計は2万円を請求され目を白黒。この日本人というのは我々が呼んだ技術屋さんで、帰国直前に打ち明けてくれましたが、スタッフ一同笑みを浮かべながら同情するのであった。甘い言葉には裏がありますぞ!ご用心。(昭和43年度畜産科卒業、現在北里研究所品質部門第3課長)

07年07月01日 |〔 会報 〕

三農生の頃〔第9回〕

北里研究所では、天然痘予防の痘瘡ワクチンは牛を使用するため鹿児島県で、狂犬病、日本脳炎、豚コレラ等のワクチンは都内目黒区の目黒支所で、馬を使用するジフテリア血清、破傷風血清、マムシ毒血清と、兎を使用する腸内細菌因子血清は、十和田市の三本木支所で行って来たが、目黒支所も周囲に住宅が密集してきたため移転を迫られ、また、社会情勢の変化により前記の伝染病が少なくなったことに伴い、製造法も進歩したので一箇所に統合することになり、昭和38年2月小生は従業員や馬と共に十和田市より、千葉県柏市に新設された附属家畜衛生研究所に移動した。小生は青森県獣医師会より千葉県獣医師会に移り、目黒支所から移った獣医師も、東京都獣医師会より千葉県獣医師会に移った。

千葉県獣医師会組織は開業部会、公職部会、家畜共済部会、団体会社部会に分かれており、さらに公職部会は農林部会と公衆衛生部会とに分かれ、北里研究所の獣医師は団体会社部会に所属した。各部会あるいは個人にとって利害が対立する場合もあり、特に開業部会は収入に直接影響するので、露骨な表現も多く不快な場面も多かった。 

北里研究所は学術研究とワクチン血清のメーカーとしての二つの立場があり、学究肌や社会性の乏しい獣医師が多く、県獣医師会活動に所長以下消極的で、小生が十和田市から着任すると待っていましたと県獣医師会の担当にさせられた。十和田訛りが強く方言も出るので、失言しても違った意味で誤解されたと逃げられるからと思ったかも知れない。以降二十数年千葉県獣医師会活動に従事し、理事や副会長も経験した。

開業獣医師にとって、春秋二回2回の狂犬病及び豚コレラの予注射や、馬の伝染性貧血症の検査等は、一箇所において短時間で、しかも多数処置が出来かつ収入が確実なので大関心事であり、サラリーマンのボーナス感覚だったと思う。十和田で同様の業務があったものの、千葉県では犬や豚の頭数が一桁違っていた。すなわち収入が10倍になるので、一頭当たり単価の件で県獣医師会長が開業部会から攻撃されるのが慣例であった。隣県の茨城県における獣医師の待遇を比較すれば格段の差で千葉県が低く、このため千葉県獣医師会長の努力が足りないとか、説明や交渉が下手ではないかとか、政治力が無いとか、会議の都度会議なのか吊るし上げか判らない有様であった。青森県の獣医師会にいたときは、三戸の澤田操県議(三農大正11年卒)や嶋本利三郎十和田市議(三農昭和7年卒)等先輩の見事な政治力で、会議が平穏なのに慣れていたので最初は驚いた。事務局の方に尋ねたら、茨城県の獣医師会長は多くの要職に就き、県議も連続5期当選し県知事も国会議員も一目置く全国的にも有名な方で、比較されるのは気の毒だと言っていた。

昭和38年9月に茨城県参議院地方区の補欠選挙があり、話題の獣医師会長が県議を辞任し参議院選挙に立候補して当選をはたした。翌日の新聞を見て驚いた。当選された方の氏名は鈴木一司氏、学歴は青森県畜産学校(三農の変更前の校名)とあるではないか。長野県の野溝先輩に続く国会議員の誕生である。(溝先輩は前号で触れたように小作農民の救済に24年間体を張って奮闘したが、終戦後占領軍の一片の指令により小作農民が自作農民になったことにより野溝氏は目標を失い、その後は日本社会党の国会議員としての活動に終わった。)ここで茨城県獣医師会長として勇名を馳せた鈴木一司先輩の足跡を辿って見よう。

鈴木先輩は明治30年2月28日、茨城県の太平洋沿岸で福島県よりの多賀郡高萩町で生まれた。小学校卒業後茨城県の最高水準の水戸中学校に入学し、3年終了で退学し我が母校青森県畜産学校に受験(受験場所は青森県県庁から依頼された茨城県庁で)、三本木から電報で合格通知が来たという。入学手続きに三本木に赴き安野旅館(屋号が  )に泊り無事手続き完了、早速寄宿舎に入ったが、火事で焼け出され安野旅館に下宿したが、校長の芳賀先生も下宿しておられ仲良しになり、後日校長の排斥運動が起きたときも同調しないで反対したという。

小生が子供のころ安野旅館といえば町で一番格が上で、旅館の前には乗用車1台と人力車が数台並んでいて、泊り客は高級官吏や高級将校が泊るところと思っていたが、大正の初期に安野旅館に下宿するとは生家が裕福だったのだろう。また、校長が下宿していたのは、当時の校長は学歴職歴とも超一流の方々ばかりで、ご自分の子弟の教育上、家族を僻地に住まわせられなかったからだと思う。
 ちなみに、初代校長は弘前市出身で米国インジアナ州ブルダウ大学卒業、ミシガン農学校や農事試験場に勤務し、滞米10年以上で帰国された方。2代目は札幌農学校農学科卒業、中継の校長心得は、東京帝国大学農科大学獣医学科卒。三代目は東京帝国大学農科大学農学科卒。4代目は札幌農学校卒業。5代目は校長心得を2回勤めた東京帝国大学農科大学獣医学科卒の高尾校長。6代目は東京帝国大学農科大学獣医学科卒の芳賀校長であった。芳賀校長と鈴木先輩が同じ旅館に同宿していたとは、現代では考えられないことです。

安野旅館は昭和16年の大火により消失したが、もともと安野家は三本木開拓の恩人新渡戸傳の子孫で、十和田河畔休屋で観光館を経営し、小笠原八十美氏の旅館「大陽」と競いあっていた。新渡戸稲造の五千円札が発行されたとき、鈴木会長が茨城県獣医師会長をやっておられたが 、会う人毎に「五千円札の叔母の家に下宿していたと話していた」と常務理事をしていた麻布獣医の同級生から聞いたことがある。

天皇陛下が皇太子で学習院大学に進学のときに、安野家の長男(小生の愚弟五郎が三本木小学校の同級生)が、八戸高校から学習院大学に入学し皇太子殿下の御学友となり、夏冬春の休み毎に学習院の制服姿で三本木の町を闊歩したものだ。卒業後は十和田市役所に勤めたが、皇太子殿下の御成婚等、節目ごとに御学友として東奥日報に談話が載っていた。

※閑話休題※

鈴木一司先輩は大正5年青森県畜産学校を卒業し、農商務省栃木種馬所に勤務したが、大正7年12月で退職し郷里高萩に帰り、大正8年1月高萩家畜市場常任獣医師、同年5月多賀郡産馬組合の獣医師も兼務、馬や牛の臨床獣医師として活躍した。傍ら大正9年高萩町に振義会道場を建設、剣道と柔道の普及指導を行い、青少年の心身鍛錬につとめ、日本剣道連盟より4段の資格を認められた。大正の末ごろの4段は現在なら6段教士ぐらいの腕前だったと思う。小生も学生、軍隊で3段だったものが、戦後弱くなるのに反比例して4段となりさらに5段となり錬士につらなったが、鈴木先輩は真に実力があったと思う。

臨床獣医師として14年間勤めたころ、周囲から推されて昭和8年高萩町町議に連続3期当選したが、2期目と3期目は戦時と戦後の混乱期で一期5年で計14年間勤められた。新憲法による選挙が昭和22年全国で行われ、多賀郡定員4名の県議選挙で最高位当選し、2期目昭和26年に副議長になり、28年議長を2年勤めた。3期目より高萩市定員1名で昭和30、34,38年と連続当選し、5期目当選後突然辞任、参議議員茨城地方区(補欠選挙)から出馬し当選された。昭和40年まで2年間参議院議員を勤め議員活動を終えた。このとき齢68歳であった。鈴木先輩が昭和22年4月茨城県県議に当選し戦後新時代に、次々に各方面の要職に就いたが、その活躍範囲の広さに驚嘆するのみである。少し長くなるが具体的に主なものを列挙し参考に供したい。

昭和22年4月(以下、昭和を省く)に茨城県(以下、県という。)獣医師会長に就任、在職49年50歳より99歳までまさに天職であった。22年5月多賀畜産農協組合長に就任(在職29年)終生顧問を務めた。23年6月県畜産農協連会長就任(在職22年)45年辞任顧問に就任、23年県治山協会理事に就任、25年には会長に就任(在職29年)49年辞任顧問に就任、24年関東地方競馬組合議員に就任37年辞任(在職13年)、24年地方競馬全国協会評議員に就任37年辞任(在職13年)、24年10月県林業協会理事に就任、29年より協会長に就任、44年5月辞任(会長在職16年)顧問に就任、27年県装蹄師会長に就任37年辞任、27年県森林審議会委員に就任、56年辞任(在職29年)、28年県草地協会長に就任55年辞任(在職38年)、30年県農業会議員に就任55年辞任(在職25年)、30年県新市町村建設審議会委員長に就任43年辞任(在職13年)、30年県畜産会長に就任60年辞任(在職30年)、41年4月社団法人中央畜産会理事に就任45年辞任、42年県農業共済組合連合会損害評価会長に就任60年辞任(在職18年)、43年県肉用牛協会長に就任50年辞任(在職8年)、45年県農政審議会長に就任55年会長辞任、委員は継続、47年県家畜畜産物衛生指導協会長に就任60年辞任(在職13年)、48年県畜産振興協議会長に就任60年辞任(在職12年)、以上主な役職を挙げたが他に委員や理事が多数あるが省略します。

ひとたび就任すると長期間在職する点が注目される。北里研究所の販売担当で北里薬品の専務、椿精一氏が昭和28年参議院全国区に無所属で出馬し惨敗し、34年社会党から出馬し、次点の次で落選した。鈴木先輩は、県議1期目は無所属、2期目以降は自由党―自民党で政治活動をしていたので"社会党の北研からワクチンを買わない"と態度を硬化し、茨城県での販売量が激減した。茨城県は養豚数が全国一で、お得意様を怒らせて大変困った時期があった。10年たって愚弟の五郎が営業課長になり、鈴木会長の忠僕の常務理事がたまたま私と麻布獣医の同級生であったことから、"五郎をよろしく"と頼んだら"孟ちゃんの弟なら一肌ぬごう"と鈴木会長に五郎を会わせ"三農の後輩だ"と言ってくれた。このことにより後々少しずつ販売量を増やしてもらい、それが五郎の成績となった。人との繋がり、先輩後輩の関係が見事に生かされ嬉しかった。

鈴木先輩は、眉も鼻下のカイゼル髭も真っ白で手入れが行き届いていつもピンとしていた。たばこは若いときには吸っていたらしいが、50歳過ぎて禁煙、年ごとに禁煙が厳しくなり、会長の出席する会議や会合では禁煙が慣例になり、ヘビースモーカーは困ったらしい。関東獣医師会連合会長とし総会や学会での壇上の端正な姿が、今でも眼に残るが、同席での喫煙を極度に嫌ったのは、自慢の白眉、白髭がたばこの煙で茶色になるのを防ぐためであったかも知れない。(北研の幹部でヘビースモーカーの白髭がたばこの煙で茶色になっているのをこの眼で見たので・・)

小生は鈴木先輩の頭脳、剣道、容姿に遠く及ばないが、たばこを吸わないことだけは一致しているのでこれを見習って、後輩諸君に健康維持のため禁煙を強く奨励しようと思う。

偉大なる鈴木一司先輩は平成9年3月百歳と一か月の充実した生涯を終えられた。平均寿命が年々伸びているので、われわれ後輩も先輩にあやかって百歳まで健康でいられるよう努力しようではありませんか。(昭和13年度獣医科卒業、元北里研究所員、医学博士)

07年07月01日 |〔 会報 〕

高窓連祭を開催

東京青森県高校同窓会連合会(神秀武会長)は、4月20日アルカディア市ヶ谷において「二〇〇八高窓連祭」を開催しました。この高窓連祭は加盟各校同窓会の親睦・意見交換を目的に、ふるさと青森県の発展に少しでも寄与できるよう10周年の昨年より、交流を密にする機会として位置付けているものです。

3月22日の総会で役員改選が行われ、新会長五所川原工業高校の神秀武氏が、副会長に我が三農の池畑守が就任されましたが、今回は他の役員と共に紹介がありました。

当日は三農東京同窓会からは7名出席し、各同窓会と交流を深めました。特に今秋封切される映画「三本木農業高校、馬術部」を、高窓連として取り上げていただき、パンフレットの作成とDVDによる映画の紹介がありました。

三農同窓生として本当に有難く感じました。三農卒業生として自信と誇りをもって知人友人に働きかけ、是非映画館に足を運んでもらいたいと思います。

07年04月20日 |〔 会報 〕